映画進化論 映画の誕生からトーキーまで

■映画につながる技術は19世紀後半から、フランスのマレー、アメリカのマイブリッジ、ドイツのアンシュッツなど、多くの人々によって研究されてきた。

それらの研究は全て、19世紀前半に完成された写真技術を、現実の運動の記録と再現に応用しようとしたものである。

■エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge、1830年4月9日 – 1904年5月8日)は、イギリス生まれの写真家。本名はエドワード・ジェームズ・マガーリッジ(Edward James Muggeridge)。

1872年、カリフォルニア州元知事リーランド・スタンフォードは、当時一般に議論されていた、ギャロップする馬の脚運びについて、4本全ての脚が地面から離れる瞬間があるという立場をとっていた。彼は友人との間でこれについて賭けをしており、最高で25,000ドルの勝負であったという話もあるが、確たる証拠はない。 スタンフォードはマイブリッジに2,000ドルで写真の撮影を依頼した。

1秒で約17m移動する馬の一瞬を撮影するためには、シャッタースピードは高速でなくてはならず、大口径レンズと高感度の感光材料が要求される。 写真用レンズについては1843年にはフォクトレンダー父子商会からペッツヴァールタイプF3.7が販売されていたが、感光材料であるコロジオン湿板は感度が低く、晴天の日でも秒単位の露出時間を要した。

彼は写真感度向上のための化学研究を行い、電気技師のジョン・D・アイザクスと協力して写真装置を制作、結局5年と5,000ドルを費やし、1877年の7月1日に一枚の写真を撮影、議論に決着をつけた。

連続写真
さらに翌年の1878年6月15日にはこの装置を等間隔に12台並べ、疾走する馬の連続撮影を成功させた。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: The_Horse_in_Motion-anim.gif
Animated gif from frame 1 to 11 of The Horse in Motion.”Sallie Gardner”, owned by Leland Stanford, running at a 1:40 pace over the Palo Alto track, 19 June 1878

シャッターは当初ゴムやスプリングを用いたものであったが、後には安定して高速度を得るために電気式のものに改良された。 これにより露出時間は1/1,000秒~1/6,000秒が得られた。

レンズはダルメイヤー製、焦点距離90mm、レンズ口径32mmが用いられた。

この馬の撮影はそれまでヨーロッパの絵画表現において支配的であった、前足は前方に、後ろ足は後方にそれぞれ伸ばして走るというのが事実とは異なっていることを示しただけでなく、得られた連続写真を用いて動的錯覚をもたらしたことで衝撃を与え、喝采を浴びた。

まずゾエトロープと組み合わされ、次に幻燈機のように投影するための装置が作られた。図像がディナー皿程度の大きさのガラスの円盤の縁に沿って並んでいるもので、「ズープラクシスコープ」と呼ばれた。投影されたのは実のところ写真ではなく、写真をもとに描かれた絵であった。1879年にスタンフォードと友人らを相手に上映され、サンフランシスコで一般にも公開された。スタンフォードの出資により、パリとロンドンでの講演旅行も行われた。

この連続写真を見たトーマス・エジソンは大いに触発され、後に映写機キネトスコープを発明することになる。これがシネマトグラフにつながり、映画が誕生することになる。

Muybridge’s Zoopraxiscope

■1888年『ラウンドヘイの庭の場面』はフランスの発明家ルイ・ル・プランス監督による1888年の短編無声映画である。

 この作品は一秒あたり12コマで記録されており、上映時間は2.11秒である。この作品はギネス世界記録で認定された最古の現存する映画フィルムである。

ルイ・エメ・オーギュスタン・ル・プランス(Louis Aime Augustin Le Prince、1841年8月28日 – 1890年9月16日失踪)は、単レンズカメラを使い世界初の映画を撮影した発明家である。

 1930年代から「映画の父」と呼ばれている。

 フランス人だが、イギリスとアメリカ合衆国で活動し、画期的な仕事を成し遂げた1888年にはイングランドのリーズにいた。

 1888年10月、(リーズの)ラウンドヘイの庭の場面とリーズ橋の場面 (Leeds Bridge) を単レンズカメラとイーストマンの紙フィルムを使い映像として撮影した。

 これはリュミエール兄弟やトーマス・エジソンといった他の発明家より数年早い。

 1890年9月16日、列車の中から奇妙な失踪を遂げたため、アメリカで計画していた一般向けデモンストレーションを実施できなかった。

 彼の身体と荷物は見つからなかったが、約1世紀後、警察の記録の中にル・プランスと思しき溺死体の写真が発見された。

 ル・プランスが失踪したおかげでトーマス・エジソンが映画の発明者と呼ばれるようになったが、現在ではル・プランスが「映画の父」と呼ばれ讃えられている。

■1891年 キネトスコープ(英: Kinetoscope)は、トーマス・エジソンによって1891年に発明された映画を上映する装置である。

 撮影機の方はキネトグラフ(英: Kinetograph)といい、キネトスコープより先に、同じくエジソンが発明した。

 スクリーンに映写されるのではなく、箱の中をのぞき込む形になる。当時は「ピープショー」とも呼ばれた。

キネトスコープ(開けて内部構造を見せた状態)

 1893年にシカゴ万国博覧会に出展し、1894年4月14日にはニューヨークのブロードウェイ1155番地に世界初の映画館(キネトスコープ・パーラー)が設置された。

 キネトスコープは世界的に大ヒットし、その後2年でアメリカのほとんどの街にキネトスコープ・パーラーが設置されることになった。

■1892年にフランスで作られたエミール・レイノーの『哀れなピエロ』(原題:Pauvre Pierrot)を初めとする一連の作品がある。

しかし、レイノーの作品は純粋な意味での映画ではなく、テアトル・オプティークと呼ばれるゼラチンフィルムに別々に描かれた手書きの人物と背景をプロジェクターで同時にスクリーンに投影する装置によって上映されていた。

■フランスのリュミエール兄弟シネマトグラフ・リュミエールという、現在のカメラや映写機と基本的な機構がほぼ同じ複合機(カメラ+映写機+プリンター)を開発し、1895年3月にパリで開催された科学振興会で公開。

 同年12月28日にパリのグラン・カフェと言う名称のカフェ(現ホテル・スクリーブ・パリ)で有料の試写会を開いた。

 リュミエール兄弟が開発したのは、その仕組みを箱から、スクリーンへと投射するものへと改良し、一度により多くの人が動画を観賞することができるようにしたもの。

 現在の映画の形態を考慮すると、リュミエール兄弟の最初の映画の公開をもって映画の起源とする方が有力な説となる。

 リュミエール兄弟らが公開した世界最初の映画群は、駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる情景をワンショットで撮したもの(『ラ・シオタ駅への列車の到着』)や、自分が経営する工場から仕事を終えた従業員達が出てくる姿を映したもの(『工場の出口』)など、計12作品。

 いずれも上映時間数分のショートフィルムだった。初めて映画を見る観客は「列車の到着」を見て、画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から飛び退いたという逸話も残っている。

ラ・シオタ駅への列車の到着』(ラ・シオタえきへのれっしゃのとうちゃく、フランス語:L’arrivée d’un train en gare de La Ciotat、英語:The Arrival of a Train at La Ciotat StationArrival of a Train at La Ciotat、またはThe Arrival of the Mail Train、イギリスではTrain Pulling into a Stationとして知られる)

■1895年『水をかけられた散水夫』(みずをかけられたさんすいふ、原題:L’ArroseurArrose)は、1895年にフランスで製作・公開された短編映画である。モノクロ、サイレント。

 製作・監督はリュミエール兄弟。別邦題に『庭師』、『水をかけられた撒水夫』などがある。

 この作品は筋書きを持つ作品であり、演出された初の作品でもある。また笑いの要素も持ち、コメディ映画の先駆けとなった。

本作は1895年12月28日、パリのグラン・カフェ1階のサロン・ナンディアン(インドの間)で『工場の出口』などの作品と共に有料公開された。これが世界初の映画興行である。

■初期の映画は、画像のみで音声のないサイレント映画と呼ばれるもので、これは1920年代末期にトーキー映画が登場して普及するまで続いた。

 シネマトグラフの投影機はけたたましい騒音をもたらし、映画には音声がなかった。

 これを紛らわすため、ピアノや足踏みオルガンの演奏による音楽の伴奏とともに上映する形式が普及した。

 現在においてサイレント映画にフォックストロットやケークウォークのような当時流行したピアノのダンス音楽がつくことが多いのは、そのような理由によるものである。

 また後年名だたる作曲家や指揮者になったクラシック音楽家は、若い頃にサイレント時代の映画館のピアノ伴奏のアルバイトをしていたという人も多い。

日本最初の映画上映としては、1896年11月上旬、神戸のリネル商会がエジソン発明のキネトスコープ2台、フィルム10種を輸入した。高橋信治らが購入し、11月17日、神戸で映写した。

 日本でエジソンが発明したキネトスコープを初上映したのは神戸の神港倶楽部で、1896年11月25日から12月1日までであった。

 日本の映画の日が12月28日から12月1日に変更されたのは、この日付に因むためと言われる

■リュミエール兄弟のシネマトグラフによる日本初のスクリーン上映は1897年1月に稲畑勝太郎によって京都電燈株式会社の当時の本社(現在の元・立誠小学校の敷地)の中庭にて初めて行われた。

 続いて1897年2月に初めての「有料上映」が稲畑勝太郎によって大阪にて行われた。

 同年3月には東京でキネトスコープを改良したヴァイタスコープが公開され、人気を博した。

 谷崎潤一郎は自著『幼少時代』において「一巻のフィルムの両端をつなぎ合わせ、同じ場面を何回も繰り返し映せるもの」と評している。

■初期の映画は日本では別名「活動写真」とも呼ばれ、映画館は「活動小屋」とも呼ばれた。日本独自の上映手法として、上映中の場面に合わせて解説を行う「活動弁士」と呼ばれる人が活躍していた。

■日本で最初の“活動写真”製作は、フランス製ゴーモンカメラにより、浅野四郎らが失敗を重ねた末、2年がかりで「浅草仲見世」「芸妓手踊」など実写11本を作り、1899年(明治32年)7月20日から東京歌舞伎座で公開。

 俳優を使った劇映画は同年関東各地を荒らしたピストル強盗逮捕を横山運平主演で柴田常吉が撮影した「稲妻強盗/清水定吉」で、同年9月に撮影、公開。

 日本初の映画俳優として新派の横山運平が起用された。

■1899年 Matches: An Appeal(イギリス)アーサー・メルボルン・クーパーによる、マッチ棒によるコマ撮りアニメーションを用いた広報映画。世界最初のコマ撮りアニメーション映画。

■1902年に、世界で初めて物語構成を持ち、複数のシーンで構成された映画『月世界旅行』がフランスで制作される。

 監督は元マジシャンで、世界で最初の職業映画作家でもあるジョルジュ・メリエス。この作品は、初のSF映画である。

★『月世界旅行』の最後の、ロケットが港に戻るシーンで、すでに切り絵アニメーション(静止した背景画の前で、船の切り絵を少しずつずらしてコマ撮りする)が用いられ、これが映画のコマ撮り(ストップモーション)によるアニメーショントリックである。

■様々な方式で同期問題の根本的対処が試みられた。多くのシステムが蓄音機とレコードを利用しており、これをサウンド・オン・ディスク技術と呼ぶ。

 円盤式レコード自体は発明者のエミール・ベルリナーに因んで「ベルリナー盤」と呼ばれた。

 1902年、レオン・ゴーモンが独自のサウンド・オン・ディスク方式Chronophoneを公開した。

 これには映写機と蓄音機を電気的に接続する特許が使われていた。

 4年後、ゴーモンはイギリスの発明家 Horace Short と Charles Parsons の開発した Auxetophone に基づいた圧縮空気による増幅システム Elgéphone を開発した。

 期待を集めたものの、ゴーモンの技術革新は商業的にはあまり成功しなかった。

 発声映画の3つの問題を完全に解決したわけではなく、その上高価だった。そのころ、ゴーモンのライバルとしてアメリカの発明家E・E・ノートンのCameraphoneがあった(円筒式なのか円盤式なのか資料によってまちまちである)。こちらもChronophoneと似たような理由で成功には至らなかった。

★映像と音声を別々に記録・再生する方式には、3つの大きな問題があった。最大の問題は同期である。

 別々に記録してあるため、完全に同時にスタートさせ、常に同期をとるのは非常に難しい。

 また十分な音量で再生することも難しかった。

 映像の方はすぐに大きなスクリーンに映写できるようになったが、真空管による電気的増幅が可能になるまで、観客席全体に響くような大音量を出すことはできなかった。

 最後の問題は録音の音質である。当時の録音システムでは、演奏者が面倒な録音装置の目の前で演奏しない限り、極めて聞き取りにくい音声しか録音できなかった。

 そのため、撮影と同時に録音する場合、映画の題材が限られることになった。

■1903年『大列車強盗』(だいれっしゃごうとう、The Great Train Robbery)は1903年にアメリカで製作・公開されたサイレント映画である。

 トーマス・アルバ・エジソン率いるエジソン社が製作した作品で、監督・製作・撮影はエドウィン・S・ポーターが務めた。

 世界初の西部劇映画と呼ばれ、アメリカ映画では初めてといえる本格的なプロットを持った作品である。

 当時の映画はワンシーンワンショット撮影が主流で、カメラも固定されていた。

 この作品もワンシーンワンショットで撮られ、14シーンで構成されているものの、ロケーション撮影(当時は書き割の背景によるセット撮影が主流であった)や縦の構図の利用並行描写パン撮影などといった映画技術が使われ、映画独特の技法を使って表現した最初の映画の一つとなった。

 現代では「アメリカ映画の古典」と呼ばれて映画史的に高く評価されており、1990年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された。

 1903年12月1日に公開され、大ヒットした。

 これを機にニッケルオデオンと呼ばれる5セントの入場料で見られる常設映画館が多く作られていった。

 ニッケルオデオン第1号であるペンシルベニア州の映画館が開館した時のこけら落としの上映作品がこの『大列車強盗』であった。

クロスカッティング (cross-cutting) は、異なる場所で同時に起きている2つ以上のシーンについて、それぞれのショットを交互に繋ぐことにより、臨場感や緊張感などの演出効果をもたらす映画のモンタージュ手法である。

 並行モンタージュともいう。D・W・グリフィスの『國民の創生』、フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』の暗殺場面などでこの技法が用いられている。

 異なる時間に起こった複数の出来事を意味的な連続性で交互に繋いだものはパラレル編集と呼ばれ、『イントレランス』(1916年)では、異なった時代と場所で起こる4つの物語が、不寛容という共通のテーマで交互に描かれていくという斬新な演出がとられている。

 映画史においては、1903年のアメリカ映画『大列車強盗』で初めてクロスカッティングが使われたとされるが、『大列車強盗』は全14シーンで構成され、当時の映画では典型的なワンシーンワンショットで撮影された作品である。

 しかし、クロスカッティングはショットとショットを交互に繋ぐものであり、『大列車強盗』は初めてこの技法を用いたとは言えない。

 ただ、2つのシーンを並列的に描いている場面があり、初めて並列編集で描かれた作品であることには変わりない。

カットバック (cutaway / cutback) は、2つ以上のショットを交互に切り返すモンタージュ手法。

 カットバックは場面Aと場面Bを時間の連続性を持って繋ぐものであり、場面Aと場面Bを並列的に繋ぐクロスカッティングとは意味が異なる。

■1903年には吉沢商店が浅草に日本で最初となる映画専門館「電気館」を設置した。

 翌1904年に日露戦争が勃発すると実写撮影班を現地中国大陸に派遣し、その映像をドキュメンタリー映画として上映し、人気を博した。

ベル&ハウエル(英語: Bell & Howell)は、アメリカ合衆国の映画用機材を製造する企業として、1907年2月17日、イリノイ州ホイーリングに設立された会社。

  • 1909年、35mmフィルムの業務用撮影機スタンダード・シネマトグラフ2709を発表
  • 1923年、16mmフィルム用撮影機フィルモ発売
  • 1925年、35mmフィルム用撮影機アイモ発売

■1907年、フランス生まれでロンドンで活動していたユージン・ロースト(1886年から1892年までエジソンの下で働いていた)がサウンド・オン・フィルム技術の世界初の特許を取得した。

 これは、音声を光の波に変換し、セルロイド上に焼き付けるというものである。

 歴史家 Scott Eyman は次のように解説している。

 それは二重のシステムであり、音と映像は別々のフィルム上にあった。(中略)基本的に音をマイクロフォンでとらえて電球を使って光の波に変換し、狭いスリットのある薄く敏感な金属リボンに照射する。

 このリボンのスリットを通過した光をフィルムに焼き付けると、幅が0.1インチ前後の震えるように変化する光の帯となる。

★サウンド・オン・フィルム方式は発声映画の標準となったが、ロースト自身は自分の発明をうまく活用できなかった。

■実写部分を含まない世界最初の純粋な短編アニメーション映画は、フランスの風刺画家エミール・コールによる『ファンタスマゴリ』(1908年、原題:Fantasmagorie)である。

■1908年に発表された『本能寺合戦』は最初の本格的な劇映画であり、横田商会の依頼で本作品を撮り上げた牧野省三は日本最初の映画監督として名を残している。

 京都に浄瑠璃小屋を所有し、狂言方として活動していた牧野は作品の原作に用いられる浄瑠璃を空で暗記していたことから、脚本を用いる事無く、撮影にあたったと言われている。

■1909年(明治42年)年には歌舞伎俳優の尾上松之助が主演した『碁盤忠信』が大ヒットとなり、「目玉の松ちゃん」として日本最初の映画スターが誕生した。

 以降、尾上は14年間の俳優生活において千本を超える映画で主演を果たしている。

スタニスラフスキー・システム(Stanislavski System)は、ロシア・ソ連の演劇人で、俳優兼演出家であったコンスタンチン・スタニスラフスキーが提唱した演技理論である。

 その背景には、フロイト心理学の影響があると言われる。

 俳優の意識的な心理操作術を通じた、人間の自然による無意識の創造を目的とする。

 方法としては、意識による間接的な手段によって潜在意識を目覚めさせ、それを創造の中に呼び込むものである。

 スタニスラフスキーのシステムは「役を生きる芸術」を開拓するものであり、これは「形で示す芸術」に対置される。

 この方法では、感情の経験や潜在意識の振る舞いといった、コントロールしにくい心理的プロセスを交感的かつ間接的に活性化するため、俳優の意識的な思考や意志といったものを動員する。

 リハーサルでは、俳優はアクションを正当化するための内的動機を探し、登場人物がある瞬間に何を実現しようとしているのかを決定しようとするが、これは「課題」と呼ばれる

★「役を生きる芸術」的なアプローチについては、すでに1905年にスタニスラフスキーが『桜の園』でシャルロッタ役を演じるにはどうすべきかということについてヴェラ・コトリャレフスカヤにアドバイスした手紙で論じられている。

★1909年にスタニスラフスキーはイワン・ツルゲーネフの『村のひと月』を演出したが、これは「自らのシステムに沿ってはじめて上演した芝居」であり、スタニスラフスキー・システムの芸術的展開にとって分水嶺となった。

 リハーサルは公開で行うというモスクワ芸術座の伝統を破り、スタニスラフスキーは非公開で準備をすすめた。

 キャストはスタニスラフスキーがやがて登場人物にとっての「連続した流れ」と呼ぶようになるもの(登場人物の感情の発展と、芝居の間にそれがどう変わるか)についての議論から準備を始めた。

 この公演は、台本のアクションを別々の「断片」に分けて分析するという実践が初めて記録された事例である。

★スタニスラフスキーは、のちに「身体的行動のメソッド」として知られるようになる、より身体にもとづいたリハーサルプロセスによって自らのシステムをさらに精緻化させた。

 この言葉じたいはスタニスラフスキーの死後にこのリハーサルプロセスに対して使われるようになったものである。

 ジーン・ベネデッティは、スタニスラフスキーは1916年までにこの方法を発達させていたものの、1930年代初めになってやっと実践で使い始めたと指摘している。

ハリウッド(英: Hollywood)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州のロサンゼルス市にある地区。映画産業の中心地。

 最初のハリウッドの映画スタジオは、1911年にネストール社が建てたもの。同じ年に、さらに15のスタジオが建てられた。

 特許をめぐる争いが発端となり、当時の大手映画製作者や映画関連機器製造業者、一般製造業者ら含め9社が、それぞれの特許を持ち寄って管理するモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニーを1908年に設立した。

 これに参加しない映画関連業者にはカンパニーから高額の特許料が請求された。参加が認められなかった中小の制作者らは一斉にこれに反発。

 特許料を払わずに買えるヨーロッパ製の機器やフィルムを使って撮影を続行した。

 カンパニー側は探偵を雇って違反者を片端から摘発したため、独立系の制作者はカンパニーの目のとどかぬ土地に出かけて映画を制作した。

 中でもロサンゼルス一帯は気候もよく、映画の撮影には理想的で、クリエイターが集まり始めた。

 また、この地はメキシコに近く、カンパニー側の追っ手がやってくることを察知して国境を越えて逃げることができた。

 カンパニーは1912年に反トラスト法違反であると指摘され、1915年には連邦裁判所で反トラスト法違反であるとされた。

 カンパニーは1917年には消滅し、これに前後してカンパニー参加業者らも次々にハリウッドに拠点を移した。

■イタリアの未来派リチョット・カヌードは、最初の真の映画理論家と考えられている。1911年、『第七芸術の誕生 The Birth of the Seventh Art』を著した。

■1911年『ジゴマ』(Zigomar)は、レオン・サジイによるフランスの怪盗小説シリーズ。及びそれを原作とした映画。

映画版「ジゴマ」1911年

 日本で爆発的なブームとなり、多くの独自の映画・小説も作られ、子供への影響から映画の上映禁止にまで及んだ。「怪盗ジゴマ」「凶賊ジゴマ」などの呼び名もある。

 1911年に製作エクレール社、ヴィクトラン・ジャッセ(フランス語版)監督・脚色で映画化される。ストーリーは原作とは大きく異なっていた。


 続編としてジャッセ監督で『ジゴマ後編 (Zigomar contre Nick Carter)』(1912年)、『探偵の勝利 (Zigomar, peau d’anguille)』(1913年)も作られた。

 豊富なアクションシーンで、後に作られた「ファントマ」とともに、アメリカで流行する連続活劇の原形と言われる。

 また撮影トリックによる瞬間的な変装シーンなども先駆的な表現だった。

Zigomar contre Nick Carter(1912年)(ジゴマ対ニック・カーター)

●映画『ジゴマ』は福宝堂が横浜の貿易商ニーロップ商会を通じて買い付けて、『探偵奇譚ジゴマ』の題で1911年11月に浅草の金龍館で封切られ(弁士加藤貞利)、封切り当初から大評判となる。

 劇場には観衆が殺到し、客を舞台に上げるほどだった。

 これは日本における洋画の最初のヒットともなった。

 当初は犯罪映画であるために上映を控えていたところ、便船が途絶えた都合でかけてみたところ大当たりをしたが、あくどい犯罪シーンに初めて接した日本の観客の中には、恐怖で悲鳴をあげる者もいた。

 福宝堂はシリーズ第2弾として、女賊の活躍するまったくの別作品を『女ジゴマ』の題で同年12月から公開、これも大ヒットとなり翌3月まで上映された。第3弾には『ジゴマ後編』(公開時は『ジゴマ続編』)を5月から公開。

 『ジゴマ』『女ジゴマ』も再映され、続いて第4弾として6月に類似の凶賊と探偵の対決もの『悪魔バトラ』、第5弾として10月に女賊ソニヤの活躍する『ソニヤ』を公開する。

和製ジゴマ登場


 福宝堂のヒットに続こうと、他の興行会社はジゴマ映画を日本で製作する。

 1912年8月には吉澤商店製作の『日本ジゴマ』が公開、これは千人の手下を持ち日本ジゴマと呼ばれる怪賊荒島大五郎と探偵の追走・対決劇で、房総半島での当時としては珍しい大掛かりな実地ロケを行い、また外国映画の手法も取り入れたものだった。

 さらに続編として『ジゴマ改心録』、『大悪魔』を9月に公開。エム・パテー商会は『新ジゴマ大探偵』を9月公開。

 いずれも連日大入りの大ヒットとなった。福宝堂映画として『ジゴマ大探偵』『続ジゴマ大探偵』も製作された。 

 東京でのヒットに続き、福宝堂の全国の上映館でもジゴマを公開。

 また弁士駒田好洋の巡業隊がジゴマのフィルムを番組に加えて、1912年から地方巡業を行い、「頗る非常大博士」の名で知れ渡っていた駒田の人気も相まって、これも大入り満員続きとなった。

上映禁止


 ジゴマブームの中、少年層に犯罪を誘発するという説や、ジゴマの影響を受けたという犯罪の報道、泥棒を真似たジゴマごっこの流行などがあり、東京朝日新聞では1912年10月4-14日にブームの分析や影響が8回の連載で取り上げられた。

 こういった世論の高まりの中、10月9日に警視庁により、犯罪を誘致助成する、公安風俗を害するとして、ジゴマ映画及び類似映画の上映禁止処分がなされた。

 これは内務省警保局も決定に関わっており、続いて各府県に対しても警保局から同様の通牒が送られ、上映禁止は次第に全国に広まっていった。

 この件を機に、それまで各警察署が行っていた映画等の興行の検閲が、制度的に整えられていくこととなった。

 しかしジゴマブームによって、1912年の映画を含めた東京市内の観物場入場者数は前年の3倍の1200万人に達し(そのうち映画は851万人)、活動写真界の大きな成長をもたらした。

 また探偵小説についても禁止処分を訴える論調が新聞などに出たが、これには処分は下されなかった。

 その後は、ジゴマの名を隠したジゴマ映画が散発的に上映されることはあったが、ブームは下火になり、1913年にはジゴマ探偵小説の出版も無くなる。

 類似書としては、ジゴマの残党が登場する、1914年押川春浪『恐怖塔』、江見水蔭『三怪人』などがあった。

 また当時出版された探偵小説は、貸本屋、古本屋などを通じて読まれ続けた。

 駒田好洋ら興行師は、金儲けの神様となったジゴマの供養祭を両国回向院で催す計画を立てたが、これは警察から中止を勧告された。

 上映禁止は1924年に解禁となったと、吉山旭光『日本映画史年表』には記載されている。

キーストン・コップス(Keystone Cops,Keystone Kops)はアメリカ合衆国で活躍したコメディアングループ。

 警官隊がドタバタ喜劇を繰り広げるというスタイルである。

 サイレント映画全盛期の1912年から1917年にかけて、スラップスティック・コメディの創始者とされるマック・セネットが設立したキーストン・スタジオの映画作品で活動した。

 考案したのは当時の俳優、ハンク・マンだったとされる。

 初代警察署長を演じた(後にフォード・スターリングと交代)。キーストン・コップスの初お目見えは1912年公開の『Hoffmeyer’s Legacy』で、1913年には「ヴァンビル警察」という舞台(設定)が定着した。

 また、この年にはロスコー・アーバックルがキーストンに入社し、コップスの一員になっている。翌年の1914年はチャーリー・チャップリンがスクリーンデビュー。

 次第に頭角を現すチャップリン作品を支える形で、コップスは活動を続けた。

■忠臣蔵映画の代表作の一つに、1912年の横田商会による牧野省三監督作品『実物応用活動写真忠臣蔵』全47場があり、主人公の尾上松之助が大石内蔵助、清水一学、浅野内匠頭の三役を演じている。

 この映画はその2年前に作成された松之助最初の全通し42場の『忠臣蔵』をもとにしたて村上喜剣の話などを付け加えたもので、「実物応用」というのは活動写真の合間に俳優が実演する映画の事である。

 この頃の忠臣蔵映画では、浪花節が口演されたりレコードで流されたりする事があった。

尾上 松之助
尾上 松之助(おのえ まつのすけ、1875年(明治8年)9月12日 – 1926年(大正15年)9月11日)

■1912年 The Cameraman’s Revenge

カメラマンの復讐(ロシア語:Местькинематографическогооператора)は、WładysławStarewiczが監督、執筆した1912年のロシアの実験的なストップモーションアニメーションショートフィルムです。

Starewiczの他の作品とともに、すべてのキャラクターを描写する関節式のストップモーション人形として実際の乾燥した昆虫標本(カブトムシ、バッタ、トンボなど)を使用することで、ストップモーションアニメーションの歴史の中で際立っています。

日活関西撮影所(にっかつかんさいさつえいじょ)は、かつて存在した日本の撮影所である。1912年改称、1918年閉鎖。

 1912年(大正元年)9月1日の日活誕生時に、吉沢商店の目黒のグラスステージと、横田商会の法華堂撮影所が引き継がれたが、目黒は早晩閉鎖され、法華堂撮影所を日活関西撮影所に改名した。

 1918年(大正7年)、前年の台風の被害などにより、関西撮影所は北区大将軍一条町に移転し、法華堂の撮影所は閉鎖した。

★1912年、横田商会・吉沢商店・M・パテー商会・福宝堂という4つの映画会社がトラスト合同を行い、日本活動写真株式会社、略称日活を発足させた。

 日活は従来の家内工業的な小規模な製作から一線を画す、日本初の本格的な映画会社となった。

 東京向島の向島撮影所、京都二条城西櫓下の関西撮影所の2箇所の撮影所を設け、東京では新派(後の現代劇)を、京都では旧劇(後の時代劇)を製作した。

■1913年、エジソンは1895年のシステムと同じくキネトフォンと名付けた映写式の発声映画システムを開発した(音源は円筒式レコード)。

 蓄音機は映写機内の複雑に配置された滑車と接続されており、理想的条件下では同期できた。

 しかし実際の上映が理想的条件でなされることは滅多にないため、この改良型キネトフォンは1年ほどで姿を消した。

■1913年『ファントマ』Fantômas

 ファントマ(Fantomas)は、フランスのピエール・スーヴェストル(Pierre Souvestre)とマルセル・アラン(Marcel Allain)共作による小説シリーズ。

 1911年から13年まで32作が書かれて圧倒的な人気を受け、1914年のスーヴェストルの死後は、1926年からアランが単独で執筆して10作が書かれた。

 1930年代まで映画、ラジオなどで広く取り上げられ、1960年代に映画化されたものも有名。

●ファントマはフランスの大衆文学の中で最も印象的な作品の一つで、「ロカンボール」「ボッツォ・コロナ大佐」「ジゴマ」「オペラ座の怪人」「アルセーヌ・ルパン」といった犯罪の天才の系列だが、恐怖や暗さは無い。

 

日活向島撮影所(にっかつむこうじまさつえいじょ、1913年10月 正式開業 – 1923年11月14日 閉鎖)は、かつて存在した日本の映画スタジオである。大正期の日活の2大撮影所の一つとして、現代劇を製作し、製作物(映画作品)の配給はすべて日活本社が行った。新派劇を得意とし「日活新派」と呼ばれた。

 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で甚大な被害を受け、同年11月14日に閉鎖。

■『メーベルの窮境』(Mabel’s Strange Predicament) は、1914年公開のメーベル・ノーマンド主演の短編サイレント映画。

 1971年に映画研究家ウノ・アスプランドが制定したチャールズ・チャップリンのフィルモグラフィーの整理システムに基づけば、チャップリンの映画出演第3作にあたる。

 キーストン社による製作で、監督はヘンリー・レアマン。

 チャップリン自身の回想によれば、「放浪者=トランプ」の扮装、いわゆる「チャーリー」のキャラクターは本作で初めて登場したとされている。

■『メーベルの窮境』(Mabel’s Strange Predicament) は、1914年2月9日公開のメーベル・ノーマンド主演の短編サイレント映画。

 1971年に映画研究家ウノ・アスプランドが制定したチャールズ・チャップリンのフィルモグラフィーの整理システムに基づけば、チャップリンの映画出演第3作にあたる。

 キーストン社による製作で、監督はヘンリー・レアマン。

 チャップリン自身の回想によれば、「放浪者=トランプ」の扮装、いわゆる「チャーリー」のキャラクターは本作で初めて登場したとされている。

 別の邦題に『メーベルの奇妙な苦境』『犬の為め』『メイベルのおかしな災難』がある。

メーベル・ノーマンド(Mabel Normand, 本名:Mabel Ethelreid Normand、1892年11月10日 – 1930年2月23日)は、アメリカ合衆国の女優、映画監督。1910年代のサイレント映画全盛期を代表するコメディエンヌ。

メーベル・ノーマンド Mabel Normand
メーベル・ノーマンド Mabel Normand

■『醜女の深情け』(しこめのふかなさけ、Tillie’s Punctured Romance)は、1914年11月14日公開のサイレント映画。

 キーストン社による製作で、監督はマック・セネット。映画史上最初の長編喜劇としてその名を残し、のちにアカデミー主演女優賞を受賞するマリー・ドレスラーの映画デビュー作として記録されている。

 助演はメーベル・ノーマンドとチャールズ・チャップリンで、その他キーストン社の主だった俳優が出演するなど、文字通り社を挙げて製作した映画である。

「チャップリン映画」という観点で見ると、1971年に映画研究家ウノ・アスプランドが制定したチャップリンのフィルモグラフィーの整理システムに基づけば、チャップリンの映画出演33作目にあたり、またチャップリンが他人のメガホンのもとで出演した事実上最後の映画であって、別のスターの脇に回った唯一の映画でもある。

■『チート』(原題: The Cheat )は、セシル・B・デミル監督による1915年公開の無声映画。

 主演は早川雪洲、ファニー・ウォード。日本人である早川雪洲が主演したことで名高い作品であるが、内容が白人女性の肩に焼印を当てるなど「国辱的である」との理由により、当時の日本では公開されなかった。

■『ゴーレム』(独: Der Golem)とは1915年1月15日に公開されたドイツのサイレント・ホラー映画。

 現存しているのは一部のみ。

 監督・主演のパウル・ヴェゲナーはグスタフ・マイリンクの同名小説が原作だと主張しているが、ユダヤ教に伝わるゴーレム伝説のうち、最も知られている16世紀のイェフダ・レーヴ・ベン・ベザレルの逸話(反ユダヤ主義から人々を守るためゴーレムを作ったと言われる)から想を得たものと思われる。

 ヴェゲナーの「ゴーレム」三部作の最初の映画で、『Der Golem und die Tänzerin(ゴーレムと踊り子)』(1917年)、『巨人ゴーレム』(1920年)がこれに続く。

 ヒロイン役のリディア・サルモノワは後にヴェゲナーと結婚した。

■1915年 『國民の創生』(こくみんのそうせい、原題: The Birth of a Nation)は、D・W・グリフィス監督による1915年公開の無声映画。

 監督・脚本はD・W・グリフィス、主演はリリアン・ギッシュ、ヘンリー・B・ウォルソール。

 1,500ショット、上映時間165分・12巻からなり、広告費も含めて約11万ドル(製作費だけでも6万1千ドル)の製作費がかけられた大作で、アメリカ映画最初の長編作品でもある。

 本作は、人種差別的な描写で批判を受け上映禁止運動も起きたが、結果的に作品は大ヒットし、ニューヨークでは44週間連続で上映されたという記録を持つ。

 また、クロスカッティングや極端なクローズアップフラッシュバックなどを効果的に使用するなど、映画技術や編集で画期的な工夫がみられ、映画表現を基礎づけた作品として映画史的に高く評価されている。

 1992年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された。

映画技法の特徴


 現在まで、この映画が語り継がれているのは、主にこの映画の画期的な技術面からである。

 グリフィスは映画芸術の基礎を築いた人物として映画史に記録されているが、バイオグラフ社時代の短編作品から試みていたカメラの使い方、各画面の迫力、各種の動的な効果、観衆に訴える的確な編集法などを、この作品で一気に開花しているのである。 

 第1に、編集の素晴らしさである。当時のそれまでの映画はワンシーンワンカットという、たとえて言えば、舞台上での俳優の動きをカメラ側はひたすら動かず固定する手法で撮られていたのである。

 この作品では一つのシーンを複数のショットで撮ることで、画面内での動きが実に多彩であるばかりでなく、各画面をとてもよく考えて、それらを計算して繋ぐことによって、映画上で絶えずストーリーが流れていることに成功している。

 モンタージュにも工夫を凝らしており、並行モンタージュとも呼ばれるクロスカッティングを駆使していることが一つの特徴であり、黒人たちに襲われる白人たちと救出に向かうKKKのシーンなどでこの技法が用いられ、緊迫感を生み出している。

 ほかにも複数のショットを総合的に組み立てて全体の出来事を見せるという技法を使って、ストーリーの時間の連続性を保てるだけでなく、迫力やエモーショナルな効果、サスペンス効果を盛り上げることにも成功している。

 ポイントオブビューによる主観の切り替え


 第2に、多くの映画技術を使用して表現したことである。上記のクロスカッティング以外にもカットバックフラッシュバック(物語の現在より過去に起きたシーンを挿入すること)、クローズアップパン(カメラを左右に動かすこと)、移動撮影などがグリフィスが本格的に使った技法で、これらの技法を使いこなしてシーンを構成し視覚的効果を上げている。効果的に用いている。 

 第3にショットの距離である。1シーンをロングショットワイドショット標準バストショットクローズアップなどのそれぞれ距離の違うショットに分解して、しかもそのショットの長さも変化させ、これを組み立てることによって迫力のあるシーンを編集できたのである。

 中にはロングショットと極端なクローズアップを交互に繋ぎ合わせる場面も見られる。

 また、当時のフィルムはオルソクロマティック・フィルムといい、階調度は低いが近景から遠景までピントを合わせることができたので、これらの様々な撮影技法にはうってつけであった。

 第4に、アイリス・アウト(絞りを開く)の活用である。

 これは、画面の一部だけから絞りを開いて全体の光景を見せるという技術である。

 この作品で使われたのは非常に原始的な方法で、レンズの前に穴を開けた紙を置いて、それを破るか外して撮影したと推定される。

 これは、1つの事象に対してその原因を劇的に提示したのみならず、心理的な効果も狙ったものである。

 第5に、シンボリックな表現を多用している、ということである。

 これは、画面にある事物を置いて、登場人物の意識なり状況を象徴させるという方法である。これも、セルゲイ・エイゼンシュテインらが後に多用した方法である。

フラッシュバック(flashback)は、物語の中に過去の出来事のシーンを挿入すること。

 文学では後説法、映画では回想シーンと呼ばれる(本項もそれに従う)。

 進行中のストーリーの背景を補完するために使われることが多い。

D・W・グリフィス デヴィッド・ウォーク・グリフィス(David Wark Griffith、1875年1月22日 – 1948年7月23日)は、アメリカ合衆国の映画監督、俳優、脚本家、映画製作者。

 映画文法の基礎を築いた人物であり、様々な映画技術(モンタージュ、カットバック、クローズアップなど)を確立して、映画を芸術的な域へと高めた。

 アメリカ初の長編映画『國民の創生』や『イントレランス』などの監督作品は彼の技術の集大成的な作品であり、現在でもアメリカ映画の名作として数えられる。

 また、女優のメアリー・ピックフォードやリリアン・ギッシュなど数多くの映画人を輩出したことでも知られ、それらの功績から「映画の父」と呼ばれている。

■1916年『イントレランス』(英語: Intolerance)は、1916年に公開されたアメリカ映画である。モノクロ・サイレント。

 監督・脚本はD・W・グリフィス、主演はリリアン・ギッシュ。

 いつの時代にも存在する不寛容(イントレランス)を描き、人間の心の狭さを糾弾した。

 この物語では4つの不寛容のエピソードが挿入されている。その4つのエピソードは、現代の(製作当時の)アメリカを舞台に青年が無実の罪で死刑宣告を受ける「アメリカ篇」(『母と法律』のストーリーにあたる部分)、ファリサイ派の迫害によるキリストの受難を描く「ユダヤ篇」、異なる神の信仰を嫌うベル教神官の裏切りでペルシャに滅ぼされるバビロンを描く「バビロン篇」、フランスのユグノー迫害政策によるサン・バルテルミの虐殺を描く「フランス篇」で、この4つの物語を並列的に描くという斬新な手法を用いて描いた。

 本作は巨大なセットを作り、大量のエキストラを動員させるなど、前作『國民の創生』よりも高額の38万5000ドルの製作費を投じ、文字通りの超大作となったものの、興行的に大惨敗した。

 しかし、4つの物語を並行して描くという構成や、クロスカッティング、大胆なクローズアップ、カットバック、超ロングショットの遠景、移動撮影などの画期的な撮影技術を駆使して映画独自の表現を行い、アメリカ映画史上の古典的名作として映画史に刻まれている。

 そんな本作は映画文法を作った作品として高い芸術的評価を受けているだけでなく、ソ連のモンタージュ理論を唱えた映画作家を始め、のちの映画界に多大な影響を与えた。

壮大なバビロンのセット

●作品はもともと8時間の長さに及び、グリフィスは4時間ずつに分けて2部構成で公開しようと考えていたが、興行主の反対で3時間ほどに短縮された。

 1916年8月5日にカリフォルニアで先行公開され、9月5日にニューヨークのリバティ劇場で封切られた。

 しかし、4つの物語が同時並行的に進行するという構成があまりにも斬新過ぎて難解だったこと、第一次世界大戦初頭の反戦ムード・厭戦ムードの中で「不寛容」をテーマに構想された映画が、制作が長引いた結果、参戦ムードが高まりはじめた1916年に公開されたために時代の空気と内容が合わなかったこと、アメリカ以外の話も取り上げていたため観客の関心をひかなかったことなどが理由で、興業的には大失敗してしまう。

 配給元のトライアングル・フィルム・コーポレーションもこの失敗で1917年に製作を停止している。

 さらにこの影響で壮大なバビロンのセットの解体費用も賄えず、このセットは数年の間廃墟のように残ってしまった。

 日本では、1919年(大正8年)3月、小林喜三郎が当時桁外れに高額な入場料である「10円」で興行を打ち、大ヒットする。

 日本では4つの並行モンタージュをバラバラにつなぎ合わせている。この編集を行ったのは岩藤思雪である。小林は同興行で得た資金で、同年12月に国際活映を設立した。

■初期の映画理論書

心理学者ヒューゴー・ミュンスターバーグ『映画劇 The Photoplay』(1916年)

アーノルト&リヒター(Arnold & Richter 、略称Arri)は、ドイツの映画用機材メーカー。

 1917年に設立された世界最大の高品質映画機材(16mm、35mm、65/70mm)と映画用光源機材のメーカーである。

 社名は創業者であるアウグスト・アーノルト(August Arnold )とロベルト・リヒター(Robert Richter )に由来する。

★1937年、エーリッヒ・ケストナー(Erich Kästner 、作家のエーリッヒ・ケストナーとは別人)が発明した世界初のレフレックスミラーシャッターをアリフレックス35カメラに導入した。

 この技術は、回転する鏡により静止画像用の一眼レフカメラ同様にフィルムに送られるものと同じく、レンズを通した画像をファインダーで確認することができるので構図やピント合わせに有利であり、この技術は今日でも多くの映画用カメラに使用されている。

■日本では大正期にかけて外国から輸入されたアニメーション映画の人気を受けて、天活(天然色活動写真株式会社)で下川凹天が、小林商会で幸内純一が、日活で北山清太郎が独自にアニメーション制作を開始。

1917年(大正6年)1月、下川が手がけた短篇アニメーション映画『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』が公開され国産アニメーション映画の第1号となったが、他の2人との差は数カ月程度でそれぞれ独自の方法で製作しているため、3人とも日本のアニメーションの創始者として扱われている。

3作品はいずれも1917年に公開されたが、現存するのは幸内純一の『なまくら刀』のみである。

日活大将軍撮影所(にっかつたいしょうぐんさつえいじょ)は、かつて存在した日本の撮影所である。

 1918年開所、1928年4月閉鎖。「日活関西撮影所」の機能を引き継ぎ、関西地区における日活の生産拠点となった。

 1919年(大正8年)7月10日、同撮影所に在籍のまま、牧野省三はミカド商会を設立し教育映画を製作し始めたが、翌1920年(大正9年)1月には同撮影所はミカド商会を吸収し「日活教育映画部」とした。

 1921年(大正10年)6月に牧野は退社し、牧野教育映画製作所を京都・等持院に設立した。

 基本的には時代劇部が同撮影所におかれ、現代劇は東京の「向島撮影所」で製作されていたが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で向島撮影所は倒壊、1,000人の従業員が本社を含めて解雇されたが、向島に残って復興につとめた従業員と現代劇の製作機能を、同年11月14日に「大将軍撮影所」へ移転させた。

 1927年(昭和2年)、太秦に新撮影所が完成すると全体を移転した。現代劇部が翌1928年(昭和3年)4月に移転した後、大将軍撮影所は閉鎖された。

純映画劇運動(じゅんえいがげきうんどう、別名:純映画運動、純粋映画劇運動)は、1918年(大正7年)から1923年(大正12年)頃にかけて起きた、日本映画界の革新運動である。

 帰山教正、谷崎潤一郎、小山内薫、田中栄三らが提唱した。欧米映画を模範としつつ、女優の起用(女形の廃止)、字幕の使用(活動弁士の廃止)、自然な演技、物語内容の現代化、映画的技法の重視、演技・演出の写実化等を唱えて、歌舞伎や新派劇の影響を強く受けている従来の日本映画(活動写真)の刷新を図った。

 関東大震災の影響で運動は終焉したが、これにより日本映画界で女優の起用が一般化し、演出技術も発展、「活動写真」が「映画」へと変わる大きな転機となった。

 運動の背景として、第一次世界大戦下に水準を高めた外国映画が輸入されたことや、大正デモクラシーといった社会状況などが挙げられ、これらの影響で古いスタイルの日本映画を批判する声が上がるようになった。

 この運動を最初に提唱したのは帰山教正で、1917年(大正6年)に理論書『活動写真劇の創作と撮影法』(正光社)で、映画は演劇の模倣ではあってはならないと主張し、シナリオや女優の使用を唱えた。同書の冒頭には次のことが書かれている。

「舞台演劇と活動写真劇とは全く異なつた性質のものであって、一寸考へると芝居を活動写真で撮影したものが直ちに映画劇と云う事が出来るように思はれるのであるが、本当の映画劇と云ふものと芝居とは全々異なつた特徴を有して居つた演劇と離して独立したものとして扱はなければならないものである」


 帰山は、理論を実践するために『生の輝き』と『深山の乙女』(1919年)を製作。両作に主演した花柳はるみが映画女優第1号となった。

 また、谷崎潤一郎は大正活映で『アマチュア倶楽部』(1920年、トーマス・栗原監督)を、小山内薫は松竹キネマ研究所で『路上の霊魂』(1921年、村田実監督)を製作してそれぞれ実践した。

 この3人の作品は外国映画を模倣していることが特徴的であり、革新性は認められたもののバタ臭さが目立ったため、興行的にも不振を極めてしまう。

 一方、田中栄三は『京屋襟店』(1922年)で日本人の生活を日本人の視点から写実的に描いており、その革新性で注目された 

■『担へ銃』(になえつつ、(Shoulder Arms) は、1918年公開のサイレント映画。ファースト・ナショナルによる製作で、主演・脚本・製作および監督はチャールズ・チャップリン。

 チャップリンの映画出演66作目にあたる。別題は日本語で「チャップリンの兵隊さん」、フランス語で「Charlot Soldat」。

 公開当時、チャップリン映画史上最高の興行収入を打ち立て、また第一次世界大戦を戦った兵士の間で「チャーリーは戦場で生まれた」と言わしめるほど愛された。

 構想当初は戦争の喜劇化について周囲に反対されたが、喜劇と戦争という悲劇に近似性を見出していたチャップリンは製作への信念を曲げることなく製作を敢行した。

 一方でチャップリンは、自身がかねてから抱いていた反戦思想と大戦への協力に積極的ではないチャップリンを非難する当時の世論との板挟みとなり、製作末期に並行して作られた『公債』ともども、言われなき非難に対抗するための作品であったとも言える。

 戦争映画ではあるが戦死者は一人も出てこず、また巧みに自身の反戦思想を取り入れている「チャップリンの流儀による戦争映画」である。

 チャップリンのフィーチャー映画の中で最も上映時間が短い作品でもある。

■1919年『散り行く花』(ちりゆくはな、英語: Broken Blossoms)は、D・W・グリフィス監督による1919年公開のアメリカ合衆国のサイレント映画である。主演はリリアン・ギッシュ、リチャード・バーセルメス。

 トーマス・バークの短編小説集『ライムハウス夜景集』の一遍『中国人と子供』を映画化したものである。

 ロンドン・ライムハウスを舞台に、15歳の少女ルーシー(リリアン・ギッシュ)と中国人青年チェン・ハン(リチャード・バーセルメス)の儚い恋を描く。

 全編を通じ、美しい映像・詩情にあふれた無声映画の秀作。本作により、映画は第八芸術となりえた、とまで評価された。

 ユナイテッド・アーティスツ(UA)の第一回配給映画でもある。

●(映画は)古来からの芸術である絵画、彫刻、音楽、文学、舞踊、建築、演劇に比肩する新たな芸術として「第八芸術」ないし、舞踊と演劇を区別せずに「第七芸術」とも呼ばれる。

松竹キネマ合名社は、1920年(大正9年)2月、松竹資本により、東京市京橋区築地3丁目9に設立された映画会社である。

 新聞紙上に広告を打ち、映画の製作・配給を発表するとともに、「2-3万坪の撮影所用地」と「人材」を公募した[1]。同年3月、同社内に「松竹キネマ俳優学校」を設立、小山内薫を校長に招聘、公募により36名の研究生を養成した。

 同年6月、東京府荏原郡蒲田村(現在の東京都大田区蒲田5丁目)の「中村化学研究所」跡地9,000坪を買収し撮影所を建設、「松竹キネマ蒲田撮影所」としてオープンした。

 同年11月1日、同撮影所は設立第1作として、木村錦花とヘンリー小谷の共同監督により、3巻ものの短篇映画『島の女』を発表する。

 そのちょうど1週間後の11月8日、松竹資本は「帝国活動写真株式会社」を東京市本郷区(現在の文京区本郷地域)に設立した。

 その5か月後の1921年(大正10年)4月、「帝国活動写真株式会社」は「松竹キネマ株式会社」と改称、「松竹キネマ合名社」はこれに吸収合併され、「松竹キネマ蒲田撮影所」の経営は「松竹キネマ株式会社」が引き継ぐことになる。 「松竹キネマ株式会社」の本社機構は、旧帝国活動写真の本郷から、旧松竹キネマ合名社の築地へと移転した

松竹キネマ俳優学校(しょうちくキネマはいゆうがっこう、1920年4月1日開校- 1920年10月)

 1920年(大正9年)2月に設立された松竹キネマ合名社が、同年4月1日に俳優の養成を目的として、木挽町にある歌舞伎座裏の芝居茶屋「梅林」の二階に開校した。

 校長には松居松葉が予定されていたが、病気のため降板し、代わって小山内薫が就任した。

 主事には人見直善が就き、講師は小山内(擬態実習)、アンナ・スラヴィア(西洋舞踊)、久米正雄(脚本講義)、松本幸四郎、市川左升(扮装術)、市川升六(擬闘術)、斎藤佳三(美術史及び音楽階梯)、玉井昇(写真術)、東健而(映画劇史)、松居(表情心理学)の10人が務めた。同校には240人の応募者のうち男子30人、女子6人の計36人が同校に学んだ。

 そのうち、小山内は映画学校の生徒を集めて実習的に映画製作を始め、第1回作品として島津保次郎の書いたシナリオ採用した『荒野』を製作することにした。

 監督は田口桜村で、台本をローマ字のタイプで打ち、演出の全権が監督にあるなど、アメリカの手法を直輸入したやり方を行った。しかし、製作は中止となった。

 同年6月25日に松竹キネマ蒲田撮影所がオープンし、俳優学校も撮影所に移転する。

 小山内は本社理事兼撮影総監督として、俳優学校の生徒らを従えて、第1作『奉仕の薔薇』を製作する。

 『奉仕の薔薇』は、村田実が監督を務め、花柳はるみが主演したが、バタ臭くて技術が未熟なため、封切りは1年後に延ばされてしまう。

 次に『光に立つ女』を製作するが、映画界の革新を図る小山内らのグループ(村田、島津保次郎、牛原虚彦、俳優学校生ら)と、商業主義的映画を作りだした撮影所とは相容れなくなったため、俳優学校は開校から半年後の10月に廃止され、小山内はグループを引き連れて、大谷竹次郎社長と相談の上、11月に本郷座本家茶屋の二階へ松竹キネマ研究所を設立して引き移った。

卒業生伊藤大輔鈴木伝明岡田宗太郎奈良真養南光明沢村春子

松竹蒲田撮影所(しょうちくかまたさつえいじょ、松竹キネマ蒲田撮影所 1920年6月開所 – 1936年1月15日閉鎖)は、かつて存在した日本の映画スタジオである。

 大正期から戦前期にかけて、松竹キネマの現代劇映画のスタジオとして稼働。通称:松竹蒲田。

 初期はハリウッドから技術者を招いたり、スター・システムを導入するなど日本映画黎明期をリードする撮影所となった。

 城戸四郎が撮影所長になってからは、通称:蒲田調と呼ばれる作品を連発し、一時代を築いた。

 小津安二郎や成瀬巳喜男、田中絹代、高峰秀子等の映画人を輩出し、国産初の本格的トーキー映画を生み出したのも同撮影所である。

■1920年7月19日 ヘンリー・小谷 来日

 ヘンリー・小谷(ヘンリー・こたに、1887年4月25日 – 1972年4月8日)は、大正・昭和期の映画監督。

 本名・小谷倉市。日本映画初期に、アメリカから最新技術を紹介、実践し、開拓者・指導者としても大きな役割を果たした。

『日本映画事業総覧 昭和五年版』

★セシル・B・デミル監督や田口桜村に推薦され、松竹蒲田撮影所に撮影技師長として赴任する。

 蒲田撮影所の監督や俳優を含めた全所員の給料の合計が3000円だったといわれるが、ヘンリーの月俸はその半分、当時としては天文学的数字の1500円だったといわれる。

 松竹は小山内薫をリーダーに映画事業に乗り出したといっても、映画の作り方を本格的に知る者は誰一人おらず、何から手を出すか、ヘンリーが来るまでは誰も分かってなかったといわれる。

 ヘンリーが到着した同年7月19日、横浜港には、白井信太郎撮影所長、小山内薫撮影総監督、田口桜村撮影部長ら、松竹の首脳陣や蒲田の俳優たちが総出で出迎える歓迎ぶりであった。

 それだけ映画先進国アメリカに賭けた夢が大きかったのである。

 まだ自動車が珍しい頃だが、一行は新型自動車に分乗し、大パレードで東海道を一路蒲田撮影所まで向かった。

 この日、撮影所の表門脇では賀古組の撮影が行われていたが、表門を入った車から身軽に降りてきたヘンリーが、キャメラの助手が手にしていたレフ板(リフレクター)を素早くとると、さっと脇の板塀にのぼり、両手で高くかざした。

 レフ板を高い位置に持っていき、反射光線をあてるという技術さえ、誰も知らなかった。

 それだけのことで、被写体である人物は、くっきり浮びあがり、見事な画になった。

 レフ板も人工光線も、すでに映画製作の現場で使用されてはいた。

 レフ板を日本人が目にしたのはこの前年のことだったが、それらは十分に活用されてはおらず、それまでレフ板はステージの上か地上に立てて太陽光線を反射させ、主要対象物や背景を明るくするものと思われていた。

 この話は広く知られ、今日、伝説とさえなっている。

 小谷はフラットな照明が支配的だったそれまでの日本の映画製作現場に、立体的効果を持つ照明法をハリウッドからもたらした。

功績


 ヘンリーのもたらしたアメリカ直輸入の映画作りは、それまでの日本映画を飛躍的に改革した。

 小谷の撮影は、歌舞伎や新派の舞台をそのまま再現したようなそれまでの「非映画的」な日本映画と異なり、「映画的」な映画を実現するものとして高く評価された。

 日本映画の様相が一変したともいわれ、画面が非常に明るくなった、カメラ・ポジションが細分化した、今まで眠っていたような画面が躍動してきた、表情が新鮮に描写された、すべてが鈍から敏に、暗から明に、夜から朝に、眠りから目覚めへと変わった。

 ハーフトーンの画調なども、それまでは絶対に見られないものだったという。

 それまでの日本映画は、それぞれ独自に編み出した流儀で撮影、現像、編集を行ってきたが、そこには職人気質や秘密主義があり、科学性が乏しかった。

 それまでコストを下げるためという理由もあって不統一だったカメラ・スピードを毎秒16コマに標準化したのもヘンリーといわれる。

 レフ板を盛んに使用するようになったのもヘンリーが最初といわれる。

 これらレフ板の持ち方、カメラポジションの定め方などを、手を取るように教え、グリスペイント(ドーラン)による映画的化粧法、撮影現場の手順、合図の方法(それらは現在のテレビスタジオでもそのまま使われている)や、当時の進歩的監督でさえいちばん不得手だったフィルム編集(カッティング)などを、ハリウッドそのままに移し、それまでの慣習をまったく無視した新手法を施行した。

 照明でいえば、それまでの日本映画は光線への配慮が低く、現像技術が未熟なこともあって、的確な判断はヘンリーが来るまで、誰にも不確かであったという。

 松竹がアメリカから輸入した高価な水銀ランプ、発電機の他、多くの照明機材は使いこなせる技師がおらず、倉庫で眠っていたといわれる。

 ヘンリーは撮影所の本館にレンガ造りのヘンリー・プロダクションを構えて編集作業を行った。

 従来の編集はフィルムを素手で扱い、フィルムの始めと終わりをピンで止めて後は垂らしておいてそれを下に引きずる、接続作業は日本鋏で行うといった酷いものであったが、ヘンリーはフィルムは一カットずつシーン・ナンバーが入ったものを、必ず洗った白手袋をはめて、そっと巻いて、棚の中に収めた。

 必要があれば番号を観て取り出し、フィルム・ジョイントは、一切機械で行った。

 ヘンリーは、それまで漠然としていた編集という仕事を、具体的な、自らの緻密な作業を通して知らせた。

 この他、小谷と同行した装置家のジョージ・チャップマンによって、進んだ装置作法等が伝えられた。

 また小谷の演出法はグリフィス・システムを踏襲していたため、俳優にシナリオもストーリーも説明しない。

 その場その場で、泣け、笑え、歩け、走れ、などと言い、自然の動作こそ最上で、少しでも行為があってはならないと強調した。

 だから泣けと言われれば、悲しくなくとも涙を出さなければならない。

 こっぴどく叱られて口惜し涙を流すと、それっと、その大写しを撮るという具合だった。

 佐藤忠男は「そこに立って五歩歩いて、そこで止まって、あそこに助監督が拳を掲げているから、そこに視線をやりなさい、向こうにいる人は誰なんですかって聞いても、『それは知らなくてもいい』と言う」、こういう小谷演出には意味があり、それまで女性の役を演じていた”女形”に代わり、この頃、映画界に”女優”が起用されるようになったから、こういう素人に演技指導する上では前述のような演出が有効だった。

「この演出法を徹底的にやったのが小津安二郎です」「これは清水宏と直接結びついている」などと小谷を”蒲田・大船調スタイル”の先駆者として評価している。

 また佐藤は「ヘンリー小谷から教えられたやり方を見事に完成させたのが島津保次郎という監督でありまして、島津保次郎のやり方を見事に受け継いだのがその助監督だった木下恵介です」とも論じている。

 ただこうした演出法は極端だと敬遠されたともいわれる。

 ヘンリーの持ち込んだ片仮名のおびただしい映画用語、今日映画でもテレビでも、何気なく使われている言葉の殆ど、例えばシナリオ(台本)、キャメラ(機械または写真機)、キャメラマン(技師または撮影技師)、メーキャップ(化粧)、セット(舞台)、ロケーション(出写)、ロケーション・ハンティング/ロケハン(ロケ探し)、スタジオ(撮影所)、ライト(光線)、ファン(ひいき)、ダブルロール(一人二役)、カット(場面)、トリック(特殊撮影)、カッティング(編集)、レフ(反射板)、エキストラ(臨時雇)(※カッコ内がそれまでの日本での慣用語)などは、小谷と一緒にアメリカから持ち込まれたものといわれる。

 後に蒲田撮影所長になった城戸四郎は、ヘンリーの功績を次のように讃えた。

「当時の蒲田にもすでに在来の監督、カメラマン多数が在籍していたが、彼らはヘンリーのアメリカナイズされた技術に注目し、撮影現場であるセット撮影、あるいはロケ処理を驚異をもってながめていた。

 そうすることによって彼らは見よう見まねで自然に映画技術を身につけ、それを自分の作品に取り入れていった。(中略)映画撮影者に曙光を与えたことは、いち松竹ばかりでなくわが国映画界に対する大きな足跡であり功績であったといえよう」。

 撮影技術の礎を作った人物として、小谷もまた、日本近代映画の父である。

■『文化生活一週間』『キートンのマイホーム』(ぶんかせいかついっしゅうかん、One Week)は、1920年9月1日公開のアメリカ合衆国のコメディ映画。サイレント、2巻(19分)。

 監督・脚本はバスター・キートンとエドワード・F・クライン。

 長年ロスコー・アーバックルと共に仕事をしていたキートンが単独で発表した最初の映画。

 実はその前に『キートンのハイ・サイン』を撮っていたが、出来が悪いと公開が見送られていた(翌年、キートンが怪我したので埋め合わせに公開された)。

帝國活動冩眞株式會社(ていこくかつどうしゃしん-、1920年11月8日 設立 – 1921年4月 改称・合併)は、かつて東京に存在した日本の映画会社である。松竹の前身となったことで知られる。略称帝活。

 1895年(明治28年)12月、大谷竹次郎が京都・新京極に「阪井座」のオーナーになったときを、現在の「松竹株式会社」は創業とみなしているが、1902年(明治35年)1月、兄の演劇興行者・白井松次郎とともにその名をとって「松竹」と「大阪朝日新聞」が報道し、松竹合資会社を設立、さらに松竹合名会社と改称した演劇興行会社「松竹」が、1920年(大正9年)2月、東京市京橋区築地3丁目9に「松竹キネマ合名社」を設立、映画の製作・配給を発表を発表するとともに、「2-3万坪の撮影所用地」と「人材」を募集する広告を新聞に出した。

 結局、東京府荏原郡蒲田村(現在の東京都大田区蒲田5丁目)の「中村化学研究所」の跡地9,000坪を買収することとなり、同地に同年6月、「松竹キネマ蒲田撮影所」をオープンした。

 同撮影所の開設第1作は、同年11月1日に松竹直営の「歌舞伎座」で公開された3巻ものの短篇映画『島の女』であるが、同作の公開のちょうど1週間後の同年11月8日、東京市本郷区に設立したのが、この「帝国活動写真株式会社」である。

 風間礼助、小林喜三郎らが取締役に名を連ねていたことから、興行の会社であることがわかる。

 そのわずか5か月後の1921年(大正10年)4月、「帝国活動写真株式会社」は、社名を「松竹キネマ株式会社」に改称、「松竹キネマ合名社」を吸収合併した。同社は本社を本郷区から、旧松竹キネマ合名社の所在地に移転した。

 この「松竹キネマ株式会社」は、のちの1936年(昭和11年)1月には蒲田撮影所を閉鎖・売却して、大船撮影所に移転し、その翌年の1937年(昭和12年)には、「松竹興行株式会社」を吸収合併し、社名を「松竹株式会社」と改めて、現在に至ることになる。

 したがって、現在の松竹の「設立年月日」は、「帝国活動写真株式会社」の設立年月日となる。

松竹キネマ研究所(しょうちくキネマけんきゅうじょ、1920年11月設立- 1921年8月解散)

 1920年(大正9年)4月1日に松竹キネマ合名社が設立した松竹キネマ俳優学校の校長となった小山内薫は、6月25日に蒲田撮影所がオープンすると、そこへ移転して門下生らと2本の映画を作るが、彼の映画改革志向と、蒲田撮影所の監督たちの商業主義的志向とが対立。

 10月に俳優学校は廃止。

 社長の大谷竹次郎と相談の上、グループを引き連れて、11月に本郷区春木町(現在の文京区本郷3丁目)の本郷座本家茶屋の二階に設立したのが松竹キネマ研究所である。

 運営費用は大谷社長から直接支出された。

 1921年(大正10年)4月8日、研究所第1回作品『路上の霊魂』(村田実監督)が、松竹キネマの配給で公開された。

 同年7月1日には牛原虚彦の監督デビュー作である『山暮るゝ』が公開されたが、3作目の『君よ知らずや』公開後の8月、興行成績の不振や製作費の過大を理由に研究所は解散し、研究所メンバーの多くは蒲田撮影所に戻った。

 小山内は松竹キネマ株式会社本社の相談役に退いたが、1922年(大正11年)3月に正式に松竹を辞めた。

 村田実は作品に過大な製作費をかけ、松竹の経済を圧迫した責任を取って解散直後に辞任した。

巨人ゴーレム(きょじんゴーレム、独: Der Golem, wie er in die Welt kam)とは、1920年公開の無声ホラー映画。

 ドイツ表現主義の初期の作品である。タイトルロールの怪物ゴーレムを演じたパウル・ヴェゲナーが監督も務めた(共同監督はカール・ベーゼ)。

 撮影は後に渡米し、ユニバーサル・ホラーで活躍したカール・フロイント。

 ヴェゲナーがゴーレムを演じるのはこれが3度目となる(いずれも監督)。

 1本目は1915年の『ゴーレム』。2本目は1917年の『Der Golem und die Tänzerin(ゴーレムと踊り子)』で、これはホラーでなく短編喜劇。

 ヴェゲナーは本物のゴーレムではなく、惚れた女を怖がらせるためにゴーレムの化粧をする男を演じた。

 ヴェゲナーは1915年版の話の運びに不満を持っていた。制作の都合で妥協したからである。

 そんな折、『プラーグの大学生』の撮影中に、プラハで語り継がれていたゴーレム伝説を聞くことができ、それをそのまま描こうと考えた。そして完成したのがこの映画である。

 本作は1915年版の前日譚にあたる。3本のゴーレム映画の中で唯一現存する映画でもある。

 この映画は後の幻想映画、とくに『フランケンシュタイン』(1931年)、日本の『大魔神』(1966年)に大きな影響を与えた。

■『カリガリ博士』(原題:Das Cabinet des Doktor Caligari)は、1920年に制作された、ロベルト・ヴィーネ監督による、革新的なドイツのサイレント映画である。

 本作品は、一連のドイツ表現主義映画の中でも最も古く、最も影響力があり、なおかつ、芸術的に評価の高い作品である。

 フィルムは白黒フィルムが使用されているが、場面に応じて緑、茶色などが着色されている。

 批評家からは、本作品のドイツ表現主義の手法や、奇抜で歪んだセットのデザイン、そして卓越した視覚的効果において、今日でも世界的に高く評価されている。

 フィルム・ノワール、およびホラー映画に影響を与えた重要な作品としても、位置づけられることが多い。

 最初期のホラー映画の一作品としても挙げられ、以降数十年間、アルフレッド・ヒッチコックなど、多くの映画監督が手本としていたことも指摘される。

奇傑ゾロ (The Mark of Zorro)1920年ににダグラス・フェアバンクス主演で映画化され世界各国で人気を博した。

原作の怪傑ゾロ(かいけつゾロ、英: Zorro)は、アメリカの作家ジョンストン・マッカレーが創作したヒーローキャラクター、またそのシリーズ作品。

作品によって快傑ゾロ、奇傑ゾロといった表記もされる。

■『ジキル博士とハイド氏』(独: Der Januskopf、 英: The Head of Janus)は、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説『ジキル博士とハイド氏』を基にした、1920年公開のドイツの映画である。

 この映画はF・W・ムルナウのフィルムのうち、現存しないもののひとつである。

 ただし、脚本と演出ノートは残っている。

 なお、スタッフのうちプロデューサーであるエリッヒ・ポマーと脚本家のハンス・ヤノヴィッツは『カリガリ博士』にも携わった。

 偶然にも、この年、アメリカ合衆国でも同じ作品を題材とした映画『狂へる悪魔』が公開された。

■『狂へる悪魔』(くるえるあくま、原題: Dr.Jekyll and Mr.Hyde)は、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説『ジキル博士とハイド氏』を基にした、ジョン・バリモア主演の1920年3月18日公開の怪奇無声映画である。

■『ロイドの化物退治(Haunted Spooks)』 (1920年3月14日公開)

 撮影中、小道具の爆発事故により右手の親指と人差し指を失くし、それ以降は義指着用となった。

要心無用(1923)』の有名なビルディング・アクションも、義指をつけての演技である。

豪傑児雷也(1921年、日活)

 明治から大正初期の映画の現場は照明がなく、フィルムチェンジの際は「チェンジ、待った!」と声をかけ、フィルム交換が済むまで役者はみんなそのまま動作を止めて待っていた。

 この「待った」の間に小便に立った役者がおり、これに気付かず撮影を再開したところ、完成フィルムで突然役者が消えうせることとなり、これが牧野省三監督得意の忍術トリック映画の始まりとなったというのが牧野省三の語った話である。

 当時の「忍術映画」の上映風景といえば、「松之助の児雷也が印を結んで大蝦蟇に化け、捕り方を呑みこみ、元の姿に戻って大蛇丸と立ち回り」というような場面では、ズームレンズなど無い時代であり、キャメラが寄って来るまで松之助は姿勢を止めてじっと待っていて、観客も同じくじっと待っている、というような非常に長閑なものだった。

 しかしこの忍術映画は、大正期の少年たちの魂をとらえて離さなかったのである。

 当時、この松之助の忍術映画が社会問題となったことがあった。「目玉の松っちゃん」の映画に影響されて、上野の駅で走ってくる汽車の前に子供が立って印を結ぶという事件が起こったのである。

 汽車が止まると、子供は自分の忍術で止まったのだと思い込んだという。

「忍術映画は世を惑わすものである」などと言われたマキノ省三監督は、仕方なく訓戒的な教育映画を連作するようになった。

 南部僑一郎は松之助について次のように語っている。

「目玉の松っちゃん、連続活劇の『ジゴマ』、子供はみんなこれの真似をしました。忍術ものが流行る、十字きって二階からパッと飛んだら、足の骨を折った、そんな話はザラにあった、大正元年です

■『死滅の谷』(しめつのたに、独: Der müde Tod)とは、1921年に公開されたドイツ表現主義映画。

 ジャンルとしてはファンタジー映画・ロマンス映画・ホラー映画にカテゴライズされる。

『マハーバーラタ』森の巻の中のサヴィトリとサティアヴァンから想を得たもので、中東、ヴェネツィア、中国を舞台にした3つの悲劇的ロマンスが描かれる。監督はフリッツ・ラング

 この映画のインタータイトルは失われたものと思われたが、ロッテ・アイスナーの助力でミュンヘン映画博物館館長エンノ・パタラス(ドイツ語版)がシネマテーク・フランセーズから発見した。

★『アンダルシアの犬』のルイス・ブニュエル監督はこの映画から多大な影響を受けた。

「『死滅の谷』を見た時、私は自分が映画を作りたいんだと気づいたんだ。私を動かしたのは3つのエピソードじゃなく、メインのエピソード、黒い帽子の男(すぐに”死”だとわかったよ)がフランドルの村に到着したところ、それと墓地のシーン。この映画の何かが私の心に深い何かを語りかけた。それは私の人生と世界のヴジョンを明らかにしてくれた」。

『アンダルシアの犬』の砂に埋められる恋人たちは、この映画のバグダッド編の西欧人の死を参考にしている。

 アルフレッド・ヒッチコックもこの映画に感銘を受けた一人である。

 ダグラス・フェアバンクスはこの映画の特殊効果、とくに中国編の空飛ぶ絨毯のシーンに感銘を受けたといわれる。

 フェアバンクスはただちにこの映画の権利を獲得、ラオール・ウォルシュ監督で『バグダッドの盗賊』(1924年)を作った

■『キッド』(The Kid)は、1921年に公開されたサイレント映画。監督・脚本・主演(サウンド版では音楽も)チャーリー・チャップリン、助演ジャッキー・クーガン。

 『キッド』は、オープニングで「笑いと たぶん涙の物語」と語っている通り、映画史上初めて喜劇と悲劇の融合が効果的に取り入れられた長編喜劇映画である。

松竹キネマ株式會社(1921年4月 合併改称 – 1937年 合併改称)は、かつて東京に存在した日本の映画会社である。「帝国活動写真株式会社」を改称して設立、さらに「松竹株式会社」と改称した、現在の松竹の直接の前身となった企業である。

■1921年7月 脚本の検閲は、演劇興行の用に供する場合、当該地方官庁の取り締まりを受ける。

 したがって、興行の用に供さない脚本は取り締まりの範囲外であるが、願出の場合はそれぞれ規定の形式があり、1ページ30字詰以内(活字刷のものは除く)として明瞭に記載することとされた。

 脚本の認可の印を押捺されたものは3年間の有効期間を有し、この検閲には、教育上の悪影響、国交親善を阻害するなどの項目に特に注意された(大正10年7月警視庁令15号)。

リズム21 Rhythmus 21 (1921)

1921年、ドイツでハンス・リヒターにより、ダダイスムの一表現として幾何学模様の変容を映した『絶対映画』というアニメーション映画が作られる。

ハンス・リヒター(Hans Richter、1888年4月6日 – 1976年2月1日)はドイツの画家、映画監督。

 ベルリンで生まれ、建築、美術などを修学後、1912年に開催された表現派の「嵐展」などに参加。第一次世界大戦にて負傷後はチューリヒ・ダダ運動に参加、肖像画や抽象芸術の作品を制作した。

 1918年、イタリアの作曲家フェルッチョ・ブゾーニ、スウェーデンの画家ヴィキング・エッゲリングらと共に色彩や形態の構造研究に取り組み、実験映画を制作している。

リズム23 Rhythmus 23 (1923)

映画研究 Filmstudie (1926)

インフレ Inflation (1927)

クレショフ効果(英語: Kuleshov Effect、フランス語: Effet Koulechov、ロシア語: Эффект Кулешова)は、ソビエト連邦の映画作家・映画理論家のレフ・クレショフが示した認知バイアスである。

 全ロシア映画大学学内で、1922年(大正11年)に実験によって示されたものである。

効果


「クレショフ効果」とは、映像群がモンタージュ(編集)され、映像の前後が変化することによって生じる意味や解釈の変化のことをいう。

 一般に映像の意味や解釈は、ほかの映像とのつながりのなかで相対的に決定されていく。本効果は、映画的な説話論の基礎である。

実験


 本効果のもつ意味論的伝染を強調するために、レフ・クレショフは、科学的経験(認知心理学)を開発した。

 クレショフは、ロシアの俳優イワン・モジューヒンのクローズアップのカットを選び、とくに無表情のものを選んだ。

 モジューヒンのカットを3つ用意し、3つの異なる映像を前に置いた。 

 第1のモンタージュでは、モジューヒンのカットの前に、スープ皿のクローズアップを置いた。

 第2のモンタージュでは、スープ皿のかわりに、棺の中の遺体を置いた。

  第3のモンタージュでは、棺の中の遺体のかわりに、ソファに横たわる女性を置いた。

それぞれのシーケンスを見た後で、俳優(モジューヒン)があらわす感情を観客は述べなければならなかった。

 その結果、観客は、第1では空腹を感じ、第2では悲しみを感じ、第3では欲望を感じたと答えたのである。

■『給料日』(Pay Day)は、1922年公開の短編サイレント映画。脚本、監督、主演はチャーリー・チャップリン。彼のファースト・ナショナル社における7作目の映画で、最後の短編(2巻物)に当たる。

 建築現場で働くチャーリー。同僚と夜更けまで呑み明かし、財布のヒモを握る恐妻のもとへと帰宅するまでの他愛のないストーリーではあるが、プチブル生活の悲哀と、現代にも通ずるところの多いギャグ満載である。

 共演は、キーストン時代からの仲間、マック・スウェインにフィリス・アレン。

ロビン・フッド (Robin Hood) 1922年アメリカ映画)- 監督:アラン・ドワン、出演:ダグラス・フェアバンクスウォーレス・ビアリー

■『吸血鬼ノスフェラトゥ』(きゅうけつきノスフェラトゥ、原題:Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens)は、F・W・ムルナウにより1922年3月4日に公開されたドイツ表現主義映画。

 ヴァンパイアを扱ったホラー映画の元祖として知られる。

 邦題には『吸血鬼ノスフェラートゥ 恐怖の交響曲』、『吸血鬼ノスフェラトゥ 恐怖の交響曲』がある。

 ムルナウは当初、ブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』を原作に映画を製作する予定だったが、彼の制作会社は版権元であるフローレンス未亡人から映像化の権利を得られなかった。

 そのため、ムルナウは独自の解釈と話の筋をわずかに変えることでこれを解決した。「ドラキュラ」 (Dracula) のタイトルは「ノスフェラトゥ」 (Nosferatu) に、ドラキュラ伯爵がオルロック (Orlok) 伯爵に変更された。


 フローレンス未亡人は著作権を侵害した盗作とドイツの裁判所に訴え、1925年に裁判所は「ドラキュラ」を土台にしていることは明白だと認定して配給停止の判決を下し、未亡人は本作のネガとプリントをすべて差し押さえた。

■『ドクトル・マブゼ』(Dr. Mabuse, der Spieler – Ein Bild der Zeit)は、1922年5月27日に公開されたドイツ映画。

 サイレント期としては異例の4時間を超す大作で、ドイツ表現主義を代表する作品の1つとされる。

 監督を、戦間期のドイツですでに巨匠として名をはせていたフリッツ・ラングが務めた。

■1922年7月 フィルム(活動写真)の検閲は取締を受けるものは観覧の用に供するもののみであった。

 説明台本2部を製作し、内務大臣に届け出ることが必要で、儀式、競技、時事を写実したもので、特に急速を要するものは映写地の地方官の許可を受けることができた。

 フィルムの長さは制限がないが、上映の場合は興行に対して無声版は5,750 m、発声版は6,000 mが限度であった。

 検閲は手数料を要し、内務大臣が許可したものは3年間、地方長官の許可したものは3か月間有効であった。

 検閲官庁が公安、風俗または保健上障害があると認めた部分は切除され、検閲済の検印を押捺し検閲の有無が明らかにされた(大正11年7月警視庁令15号。大正14年3月内務省令10号)。

■1923年(大正12年)フィルモ70 A発売。

 フィルモ(英語: Filmo)は、アメリカ合衆国のベル&ハウエルが製造した16mmフィルムおよび8mmフィルムの映画用カメラ、映写機、付属品の製品ラインである。

 最初のバネ仕掛けモータードライヴによる16mm撮影機である。

絢爛豪華なフィルモ75撮影機(1928年)

荒武者キートンキートンの激流危機一髪!) (Our Hospitality, 共同監督, 1923)

要心無用(ようじんむよう、Safety Last!)とは、1923年4月11日公開のアメリカ合衆国のロマンティック・コメディである。

 近年は『ロイドの要心無用』(ロイドのようじんむよう)のタイトルで知られている。

 1977年に東宝東和の「プレイ・ロイド」シリーズとしてリバイバル上映した時は『ロイドの用心無用』(ロイドのようじんむよう)という邦題もつけられた。

 主演のハロルド・ロイドが高層ビルの時計の針にぶらさがっているシーンはサイレント映画を代表する名シーンで、後の映画で何度もオマージュされている。

 興行的にも批評的にも大成功で、ロイドの人気を決定的なものにした。

 現在でもリバイバル上映され、ロジャー・イーバートなどから映画史に残る傑作コメディ映画の1本と評価されている。

 第1回キネマ旬報ベスト・テン(1924年)では「娯楽的に最も優れた映画」の第3位に選出されている。

 この映画の原題「Safety Last」は工事現場などで使う「安全第一(safety first)」のもじりである。

 実は4年前、ロイドは撮影中の事故で親指と人差指を失っていた。それにもかかわらずこの映画ではビルの壁をよじ登る危険なスタントをこなした。

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒ごろに発生した関東大地震によって、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害。

純映画劇運動は1923年の関東大震災で、現代劇映画を製作していた東京のあらゆる撮影所が壊滅し、旧劇の中心地・京都での撮影のみが行われる状況が発生したことにより突然の終焉を迎えることとなった。

■『ロイドの巨人征服Why Worry?)』 (1923年9月2日公開)

鉄路の白薔薇 – La Roue (1923年)

「ヨーロッパのグリフィス」などと呼ばれたアベル・ガンス(フランス語: Abel Gance, 1889年10月25日 – 1981年11月10日)監督作品。

 フラッシュの技法による極端に短いショットが次第に速いスピードで交互にカットされていき、最終的には1コマ単位でカットされていくという加速的モンタージュでリズミカルな映像効果をもたらし、後の映画作家に多大な影響を与える、映画史に残る名作となった。

■『十誡』(じっかい、The Ten Commandments)は、1923年製作のアメリカ合衆国の映画。監督はセシル・B・デミル

 映画は2部構成となっており、第1部で旧約聖書の物語を、第2部は現代の物語を描く。

 それまできわどい男女関係を描いた豪華な社交界劇でヒットを続けていたデミルは、作品が良俗に反するという批判的な世論が高まると見るや、180度転回してこの作品を作り、今度は豪華スペクタクルの巨匠としての歩みを始めることになった。

 デミルは、1956年にこの映画の第1部をリメイクしている。チャールトン・ヘストンがモーゼを演じた『十戒』である。

★1920年代のデミルは、第一次世界大戦後の好況期における大衆の享楽志向を捉えヒット作を連発、デミルはハリウッド映画の創生期の実力者にのし上がる。

 デミルの成功の秘訣は、たとえ男性客を喜ばすようなシーンであっても、女性も画面に釘付けになるように演出を仕組むことにあった。

 例えばバスルームのシーンではバスローブもネグリジェも最高の品を用意させ、女優たちが身につける豪勢なジュエリーなどの宝石類はすべて本物で撮影した。

 誰もが目を奪われるほどの絢爛豪華な衣装はデミルの映画の代名詞ともなり、多くの女性客を魅了した。

 このような金に糸目をつけない派手な演出は多くの集客に効果をみせ、夫やボーイフレンド連れの女性らがデミルの映画を見に劇場へ通うようになった。

 しかし、このような演出で撮影された作品群に、保守派や宗教団体らが黙っているわけはなかった。デミル自身、一斉に自分の映画が世論からボイコットされる予感もしていた。

セシル・B・デミル
Cecil B. DeMille

『十誡』(1923年)制作前後、デミルの作風は再度転換期を迎えた。

 旧約聖書という固い主題の作品を扱えば、そのような世論の動きが鎮まるのではないかと映画製作へ踏み切った。

 しかし、デミルの豪華主義は相変わらずで、映画会社の製作資金を湯水のようにつぎ込んだ。

 劇中では3千人もの人員や何千頭もの家畜をエキストラとして動員し、モーゼが紅海の海水を割るシーンの派手さは後々までの語りぐさとなるほどであった。

 当初の予想に反してこの映画がヒットし制作費を超える収益をあげたデミルは、続けて『キング・オブ・キングス』(1927年)、『暴君ネロ』(1932年)、『クレオパトラ』(1934年)など一連の歴史ものを制作し、次々と成功を収めていく。

 この頃マスコミは、社内で大勢の側近を従え、シルクのシャツに乗馬用のブーツをはき(写真参考)気障に決めたスタイルのデミルを揶揄し、デミルの所属するパラマウント・スタジオを「デミル王国」とも呼んだ。

 1927年5月11日に設立された「映画芸術科学アカデミー」の36名の創立会員の1人としても名を連ねている。

マキノ映画製作所(マキノえいがせいさくしょ、1923年6月1日 設立 – 1924年 合併)は、かつて存在した日本の映画会社である。

 1920年代(大正末期)の日本映画において活動し成功した、初期の独立プロダクションである。

 俳優だった衣笠貞之助を監督としてフル稼働し、大部屋俳優阪東妻三郎をスターにし、20代前半の若者たちを脚本家・寿々喜多呂九平、映画監督・二川文太郎、井上金太郎としてデビューさせた。

松竹京都撮影所(しょうちくきょうとさつえいじょ)は、かつて大正から昭和にかけて京都市に存在した松竹キネマあるいは松竹が直営した日本の映画スタジオである。

 時代劇を製作していた。1923年(大正12年) – 1952年(昭和27年)には左京区の下加茂(下鴨宮崎町)、1952年(昭和27年) – 1965年(昭和40年)までは右京区の太秦(太秦堀ヶ内町)にあった。

★1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災に東京の松竹蒲田撮影所が罹災したため、松竹下加茂撮影所として開設された。

 同月、壊滅した蒲田から一時現代劇の撮影が移転してきた。1925年(大正14年)6月には、蒲田に引き上げ、閉鎖となる。

 1926年(大正15年)1月、松竹京都撮影所と改称して再オープンした。

 1927年(昭和2年)、林長二郎(後の長谷川一夫)の『稚児の剱法』が爆発的ヒット。

『雪之丞変化』、『残菊物語』など「下加茂カラー」と呼ばれる時代劇で一世を風靡した。

■1923年4月15日、ニューヨーク市のリボリ劇場で世界初のサウンド・オン・フィルム方式の映画が商業上映された。

 ド・フォレストのフォノフィルムと題して複数の短編映画とサイレントの長編映画を組み合わせた上映だった。

 同年6月、ド・フォレストはフォノフィルムの重要な特許について従業員 Freeman Harrison Owens との法廷闘争に入った。

 法廷では最終的にド・フォレストが勝ったが、今日ではOwensが主たる発明者だったと認められている。

 翌年、ド・フォレストのスタジオはトーキーとして撮影された最初の商用劇映画 Love’s Old Sweet Song(2巻、監督 J. Searle Dawley、主演 Una Merkel)を公開した。

 しかし、フォノフィルム作品の多くはオリジナルのドラマではなく、有名人のドキュメンタリー、流行歌の演奏シーン、喜劇などだった。

 カルビン・クーリッジ大統領、オペラ歌手の Abbie Mitchell、ボードヴィルのスター Phil Baker、Ben Bernie、エディ・カンター、Oscar Levant といった人々が初期のフォノフィルムの映画に登場していた。

 ハリウッドは新技術に懐疑的で慎重だった。Photoplay誌の編集者ジェームズ・カークは1924年3月、「ド・フォレスト氏は言う『トーキーは完成した。ひまし油と同じように』と」と書いている。

 ド・フォレストの方式は1927年までアメリカ国内で十数本の短編映画に使われ続けた。

 イギリスでは数年長く使われ、British Talking Pictures の子会社である British Sound Film Productions による短編映画と長編映画が作られた。

 1930年末までにフォノフィルムの商業利用は衰退した。

■ヨーロッパでも独自にサウンド・オン・フィルム方式を開発する人々がいた。

 1919年、ド・フォレストが特許を取得したのと同じ年、3人のドイツ人発明家がトリ=エルゴン音響システムの特許を取得した。

 1922年9月17日、劇映画 Der Brandstifter を含むトリ=エルゴンのサウンド・オン・フィルム方式の映画がベルリンの Alhambra Kino で招待客に公開された。

 ヨーロッパではこのトリ=エルゴンが一時主流となった。1923年には2人のデンマーク人技師 Axel Petersen と Arnold Poulsen が映画のフィルムとは別のフィルムに音声を録音し、2本のフィルムを並行させて映写・再生する方式の特許を取得した。

 これをゴーモンがライセンス取得し、Cinéphone の名前で商業化した。

■『キートンの恋愛三代記』(キートンのれんあいさんだいき、原題: Three Ages)、または『滑稽恋愛三代記』は、バスター・キートンとウォーレス・ビアリー出演の1923年のアメリカ合衆国の白黒・サイレント・コメディ映画である。

 バスター・キートンが初めて監督・脚本・製作を務めた長編映画である。

■『ノートルダムの傴僂男』(ノートルダムのせむしおとこ、The Hunchback of Notre Dame)とは、1923年9月2日公開のアメリカ合衆国の恋愛映画。

 近年は『ノートルダムのせむし男』と表記されている。

 ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』(1831年)の映画化で、監督はウォーレス・ウォースリー。

 製作はカール・レムリとアーヴィング・タルバーグ。出演はロン・チェイニーで、カジモドのメーキャップとアクションはホラー映画の趣がある。

 性格俳優として知られていたチェイニーはこの映画でハリウッドのトップスターの仲間入りをし、その後も『オペラの怪人』など多くのホラー映画に主演した。

最後の人(Der letzte Mann (1924公開))

 F・W・ムルナウ監督。

 中間字幕を一切使わないという試みを行い、映像技術とともに高く評価され、表現主義の傑作と呼ばれたと同時にムルナウの代表作の1つとなった。

バクダッドの盗賊 The Thief of Bagdad は1924年3月18日に公開されたアメリカの剣戟サイレント映画。

主演はダグラス・フェアバンクス

 バグダッドの盗賊は現在、偉大なサイレント映画とフェアバンクスの最大の作品の一つと広く考えられている。

■『キートンの探偵学入門』(キートンのたんていがくにゅうもん、Sherlock Jr.)とは、1924年4月21日公開のアメリカ合衆国のサイレントコメディ映画。

 バスター・キートン監督・主演。戦前初公開の時には『忍術キートン』(にんじゅつキートン)という邦題がつけられたが、1973年6月16日、フランス映画社が「ハロー!キートン」という特集上映をした際にこの邦題に改められて以来、この邦題で定着している。

 この映画には危険なスタントシーンが多数出てくる。キートンは後に映画史家のケヴィン・ブラウンローに「プロのカメラマンたちは、私たちがいったい何をどうやったのか突き止めるため何度も映画を観に来たものさ」と語った。

 キートンが色男を尾行する途中、汽車の上を走って給水塔に掴まり、大量の水を浴びて落ちるシーンではキートンの首の骨が折れてしまった。

 しかしキートンはこの時頭が痛いと思っただけで、骨折が発覚したのは1年半後であり、その時には完治していた。

 スクリーンの中に入りこんですぐ、キートンが次々に切り替わる場面展開(中庭から車の走る通り、崖の上、ライオンのいる草原、荒野、磯辺、雪原)の中でドタバタをやるくだりは、キートンの動きをスムーズに見せるため、キートンとカメラの位置を測量機で正確に測って撮影された

海底王キートン (The Navigator, 共同監督, 1924)

アイモ(英語: Eyemo)は、アメリカ合衆国のベル&ハウエルが製造した35mmフィルムの映画用カメラである。1925年発売。

 第二次世界大戦後の1955年前後まで、劇場用あるいはテレビ放映用のニュース映画の撮影において世界的に用いられた。

 設計され、最初の製品が製造されたのは、1925年(大正14年)であり、以来、100フィートの35mmフィルムが充填できる映画用カメラの最小型機種として、長年現役として使用されている。

 小型であり頑丈であることから、ニュース映画や従軍するカメラマンに好まれた。ヴェトナム戦争においては、アメリカ国防総省がアイモについてのマニュアルを発行している。

 劇映画 (Fictional film) やドキュメンタリー映画の映画作家たちも本機を使用しており、それは本機が、ポータブル性に優れ、頑丈であり、小型ゆえにカメラが回っていることに気づかれにくいことが求められている。

 日本のニュース映画では昭和30年代まで本機が主に使われていたが、『東京オリンピック』がきっかけで、アーノルド&リヒターの「アリフレックス」にとってかわられたという。

■『戦艦ポチョムキン』(せんかんポチョムキン、ロシア語: Броненосец «Потёмкин»ブラニノースィツ・パチョームキン、英語:Battleship Potemkin)は、1925年に製作・公開されたソビエト連邦のサイレント映画。

 セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の長編第2作で、「第1次ロシア革命20周年記念」として製作された。

 1905年に起きた戦艦ポチョムキンの反乱を描いたもので、「オデッサの階段」と呼ばれるオデッサの市民を虐殺する場面は映画史上有名なシーンの一つであり、様々なオマージュやパロディを生んでいる。

 しかし、「オデッサの階段」の場面や終盤の黒海艦隊の多くの艦が反乱に同調する(実際は数隻のみ)場面など史実とは大きく異なる部分も多い。

階段シーンの撮影現場(オデッサ)

 当時のソ連の映画人が提唱したモンタージュ理論を確立した作品として知られ、エイゼンシュテインが唱える「アトラクションのモンタージュ」などといった独創的なモンタージュ理論を実践しており、世界各地で大きな反響を受けるとともに、後の映画人にも多大な影響を与えた。

 現在に至るまで映画史的に非常に重要な作品として評価されており、『國民の創生』、『市民ケーン』とともに映画芸術に革命をもたらした画期的作品とされる。

 共産主義的プロパガンダ映画のために、海外で公開される際は検閲を受け、多くの場面がカットされるなど公開に難航した。日本でも終戦から22年が経った1967年にようやく一般公開された。

モンタージュ(montage)は、映画用語で、視点の異なる複数のカットを組み合わせて用いる技法のこと。

 元々はフランス語で「(機械の)組み立て」という意味。映像編集の基礎であるため、編集と同義で使われることも多い。

★モンタージュ技法は、純丘曜彰によれば、大きく2つの方向へ分岐するとされる。一方はソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインに代表されるエイゼンシュテイン・モンタージュであり、他方は米国の映画監督D・W・グリフィスに代表されるグリフィス・モンタージュである。

 エイゼンシュテイン・モンタージュは、当時流行し始めたソシュールの構造主義の影響を受け、台本の言語的要素を映像に置き換えて編集していく手法であり、エイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』の「オデッサの階段」がその典型とされる。

 グリフィス・モンタージュは、ジークムント・フロイトの影響を受けたコンスタンチン・スタニスラフスキーの演出論に基づくものであり、俳優たちを特殊な状況に陥れた実際を、複数のカメラを用いたマルチ・カヴァレッジによって同時撮影し、その時間尺を変えることなく多面的な視点を取り入れて線形に編集していく手法であり、グリフィスの『イントレランス』のスペクタクルシーンがそのはじまりとされる。

 その後、エイゼンシュテイン・モンタージュは、共産主義におけるエンゲルスの質的弁証法の応用として、ソ連およびフランスの左翼思想家において支持され、同様に、左翼シンパの多かった日本の映画業界においても、映画編集理論の主流とされた。

 たとえば、小津安二郎は代表作『東京物語』において別撮りのカット・バックを多用している。

 バンクを用いる日本のアニメもこの系統に属する。また、理論的には、メッツらの映像記号論に継承されて研究されていく。

 また、グリフィス・モンタージュは、当初は多大な撮影予算がかかるために敬遠されてきたが、日本の黒澤明が代表作『七人の侍』の戦闘シーンでそのすごみを見せつけた。

 当初、記録媒体を持たなかったテレビも、複数のカメラで同時撮影し、サブ(副調整室)におけるスィッチングで同時編集していくため、このスタイルを採ることが多かった。

 おりしもロシア革命とスターリニズムから大量亡命でスタニスラフスキーの演出論は、戦後、故国ソ連よりも米国で定着し、マーロン・ブランドなどの俳優に大きな影響を与えていた。

 フランシス・フォード・コッポラはあくまでエイゼンシュテイン・スタイルを好んだが、その次世代のスティーヴン・スピルバーグらは、黒澤の感化を受けてグリフィス・スタイルを多用し、今日、デジタル撮影の普及もあって、これがハリウッドの標準編集形態となっている。

 中条省平はフラッシュバックに力点をおく「リズミカルなモンタージュ」は、大正末期の日本映画で大流行し、乱用される傾向があった。

 時代劇の剣戟場面にも激しいフラッシュバックが応用され、のちに「チャンバラ・モンタージュ」とさえ呼ばれたという

■『黄金狂時代』(おうごんきょうじだい、原題:The Gold Rush)は、1925年に製作されたアメリカ映画である。

 チャールズ・チャップリンが監督・脚本・主演を務めた喜劇映画で、喜劇王と呼ばれたチャップリンの作品の中でも特に傑作と呼ばれている作品である。

 飢えや孤独などに翻弄されながら、黄金を求めて狂奔する人々をチャップリンならではのヒューマニズムとギャグで面白おかしく描いている。

 作品は1925年6月26日にロサンゼルスのローマンズ・エジプシャン劇場でプレミア公開され、600万ドル以上の収益を上げたといわれる。日本では同年12月17日に公開され、1926年度のキネマ旬報ベストテン第1位にランクインされている。

 空腹のあまりにチャップリンが靴をゆでて、靴底の釘を鶏肉の骨のようにしゃぶり、靴ひもをスパゲティのように食べるシーンや、ロールパンにフォークを刺して足に見立てて、ダンスを披露するシーンなどが有名。

 チャップリンが1919年にD・W・グリフィス、メアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクスらとともに創立したユナイテッド・アーティスツで製作・配給し、チャップリンにとって前作『巴里の女性』に続く同社での作品となった。

 また、彼の初の長編映画でもある。1942年にチャップリン自身がナレーションをつけて再公開したサウンド版が製作されている。

■『オペラの怪人』(The Phantom of the Opera)は、ガストン・ルルーの小説『オペラ座の怪人』を基にした1925年9月6日公開のアメリカ合衆国のサイレント・ホラー映画である。

 ルパート・ジュリアンが監督し、ロン・チェイニーが愛する女性をスターにするために殺人や暴力を犯すパリ国立オペラに出没するタイトル・ロールの醜い怪人役を演じた。

 映画公開まで門外不出であったチェイニーが自ら考案したメイクで、チェイニーにとってもっとも有名なホラー映画である。

ChaneyPhantomoftheOpera.jpg

 なお邦題はのちの『オペラ座の怪人』ではなく『オペラの怪人』として公開された。

■『雄呂血』(おろち)は、1925年11月20日(大正14年)公開、二川文太郎監督による日本のサイレント映画、剣戟映画である。

 阪東妻三郎プロダクション設立第1作であり、日本に「剣戟ブーム」を起こした記念碑的作品である。

1925年(大正14年)6月、23歳の若きスター、剣戟俳優の阪東妻三郎が東亜キネマから独立し、「阪東妻三郎プロダクション」を設立、記念すべき第1作として製作されたのが本作、『雄呂血』である。

 同時期に東亜キネマから独立した牧野省三が総指揮を執り、鬼才と呼ばれた寿々喜多呂九平がオリジナル脚本を書き、『快傑鷹』(1924年)の二川文太郎が監督した。

 寿々喜多も二川も、マキノ映画時代からバンツマ映画を支えてきたバンツマの盟友だった。

 初め『無頼漢』というタイトルであったが、検閲からのクレームがつき、おびただしいシーンのカットの末、『雄呂血』に改称された。

 本作は、マキノ・プロダクションが配給し、マキノ東京派の高松豊次郎が経営する浅草の映画館・大東京をフラッグシップに、同年11月20日、全国公開された。

 ただし、公開順は東京の吾嬬撮影所で撮影した第2作『異人娘と武士』のほうが先であった。

 阪東妻三郎は独立第一作ということもあって、本作のフィルムプリントを手元に保管していた。

 妻三郎の没後、コレクターが所有していたプリントを弁士の松田春翠が譲り受けて、戦後サウンド版で公開され、ホームビデオやDVDで販売されるようになった。

 著作権の保護期間が満了し、現在パブリックドメインにある作品である。

■『ロスト・ワールド』(英: The Lost World)は、アーサー・コナン・ドイルの『失われた世界』を元にした、1925年のアメリカ映画(無声映画)。55分。完全版は100分。

劇場公開時のポスター

ストップモーションや特殊メイクを積極的に使用、当時としては非常にリアルな「異世界と、そこに生きる生物達」を描き、大ヒットを記録。本作品の成功が、同様に特撮映画の古典である『キングコング』へ、ひいては特撮映画(モンスター映画)というジャンルの定着へと繋がっている。

監督:ハリー・O・ホイト
原作:アーサー・コナン・ドイル
特殊効果・技術監督:ウィリス・オブライエン

★SFXはウィリス・H・オブライエンが担当、7年がかりで撮影している。なお、1960年には、本作のリメイク映画『失われた世界』が公開され、ウィリス・H・オブライエンの名もクレジットされている。

キートンのセブン・チャンス(キートンの栃麺棒) (Seven Chances, 1925)

バスター・キートンの最高傑作のひとつ。

マルセル・デュシャンによってフランスでも幾何学模様の変容(デュシャン作品は円盤の回転)による『純粋映画』が試みられた。

アネミック・シネマ』(Anémic Cinéma)は、マルセル・デュシャンが1926年に制作した、ダダイスム的とも、シュルレアリスム的とも評される実験映画。

 映画には、デュシャンが「ロトレリーフ」と呼んだ、回転する映像が映し出され、ときおり、フランス語による地口、駄洒落が盛り込まれた文がやはり回転する円盤に乗って映し出される。

 デュシャンはこの映画に、オルター・エゴ(別人格名)であるローズ・セラヴィ(Rrose Sélavy)として署名した。

「anémic」は、「cinéma」のアナグラムであるが、「貧血の」を意味する「Anémique」と同じ発音となるため、日本語で「貧血映画」と翻訳されたことがある。

 この映画の中心的なモチーフとなっている「ロトレリーフ」とは、デュシャンが、自作の回転する造形物につけた名である。

 この光学的な「おもちゃ」を作るため、デュシャンは平らな円形の厚紙にデザインを書き、レコードのターンテーブルに乗せて回転させ、三次元的に見えるようにした。

 1935年、デュシャンはパリで開催された発明見本市にブースを設け、こうしたデザイン6点を印刷した500セットの「ロトレリーフ」を販売しようとした。

 この試みは、金銭的にはまったくの失敗だったが、一部の光学/視覚の研究者は、一方の視力を失った人に立体感覚を回復させるために役立つものではないかと考えた。

 マン・レイとマルク・アレグレ(Marc Allégret)の協力を得て、デュシャンは「ロトレリーフ」の初期のバージョンを映画に収めたが、その最初のバージョンが『アネミック・シネマ』であった。

マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887年7月28日 – 1968年10月2日)は、フランス生まれの美術家。20世紀美術に決定的な影響を残した。

世界初のトーキーアニメーション映画

1926年『My Old Kentucky Home』は、1926年6月にフライシャースタジオのマックスとデイブフライシャーによってソングカーテューンズシリーズの1つとして最初にリリースされた短編アニメーション映画。

■1926年7月、フォックス・フィルム・コーポレーションのウィリアム・フォックスが特許を含むムービートーンのシステム全体を買収すると、ムービートーンの商用利用が始まった。

 フォックス・ムービートーンを使った最初の長編映画はF・W・ムルナウ監督の『サンライズ』(1927年)で、映画についていた音は音楽と効果音だけだった。

 シングル・システムで持ち運びが簡単なことから、フォックス社の長編トーキーはムービートーン・システムで撮影された。

ムービートーン(Movietone)とは、フィルム映像と録音された音を同期させるためのサウンド・システムのこと。

 セオドア・ケースが助手のアール・I・スポナブルと開発し、フォックス・フィルム・コーポレーションのウィリアム・フォックスが商用利用した。

 リー・ド・フォレストのフォノフィルム、ワーナー・ブラザースのヴァイタフォン、RCAフォトフォンとともに1920年代にアメリカ合衆国で開発された4つのトーキー・サウンド・システムのひとつ。

■『ドン・ファン』 (Don Juan) は、アラン・クロスランドが監督した1926年8月6日に公開されたアメリカ合衆国の恋愛冒険映画/劇映画。

 ヴァイタフォンによって同期された効果音や音楽が付けられた、長編映画としては最初の作品であったが、会話の収録は行なわれなかった。

ヴァイタフォン (Vitaphone) とはワーナー・ブラザースが開発したフィルム映像と録音された音を同期させるため(トーキー映画)のシステム。

 このシステムは、トーキー映画とサイレント映画の「ハイブリッド」で上映できる作品として、『ドン・ファン』(アラン・クロスランド監督、1926年)において最初に使われた。

 しかし、このシステムが最も有名になったのは、いわゆる長編映画最初のトーキー映画として知られるようになる『ジャズ・シンガー』(アラン・クロスランド監督、1927年)に使用されてからである。

 原理として、映写中に映画と同調された音声を収録したシェラック製の78回転レコードを使用し同時再生するものだった。

 しかしこの当時のレコードは壊れやすかったのに加え、正確に同期を継続させるのは困難であった。

 そのためまもなくこの方式は廃れ、フォックス映画社の開発したサウンド・オン・フィルム・システム(サウンドトラックの原型)のムービートーンに切り替わった。

 なおこれと原理が似たものとして、現在のDTSがある。DTS方式で再生している場合は、フィルム上に正確なデジタル同期信号が、そして音声部には別に専用のプロセッサーを使って、画面と音声を正確に同期させて再生させている。

★ヴァイタフォンを担当していたジョージ・グローヴス (George Groves) は、フィルムに付けるサウンドトラックを任されていた。

 彼は新たな工夫を編み出し、何本ものマイクロフォンを用いる技法によって、107人編成の強力なオーケストラの音を、録音しながら同時にミックスしていった。

 これによって彼は、映画史上最初の音楽ミキサーになったのであった。

阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画(ばんつま たちばな ユニヴァーサル れんごうえいが、1926年9月 契約 – 1927年5月 契約解除)は、かつて存在した日本とアメリカ合衆国との合弁による、日本の映画会社である。

阪東 妻三郎

★当時のスター俳優阪東妻三郎は、米国ユニヴァーサル社のために阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)が映画製作を行なう旨の契約を同社と交わした。

 この契約は、米国公開のための契約ではなく、国内での阪妻人気に注目したユニヴァーサル日本支社長が、自社作品の日本国内での併映に、と目論んだものである。

 いっぽう、阪妻プロの経営者である一立商店の立花良介は、それに先行する1925年(大正14年)に同プロダクションを設立、奈良の中川紫郎が経営する中川紫郎プロダクション撮影所、東京の高松豊次郎が経営する高松プロダクションの吾嬬撮影所などを使用していたが、翌1926年5月2日からは京都の太秦に開所した「太秦撮影所」を稼動し、阪東の主演作を製作していた。

 この契約により、ユニヴァーサル社からは撮影・照明等の機材、現像機材、特殊撮影機材等、当時の金額で20万ドルに相当する供与を受け、また半年交代で3-4名の技術スタッフ派遣を受け、阪妻プロからは毎年男女優1名ずつをユニヴァーサル・シティに派遣、見学および必要に応じては出演も可能、太秦撮影所製作の映画をユニヴァーサル社が世界配給も可能、という壮大な計画を立花は発表した。

 米国ユニヴァーサル社の創立社長カール・レムリも、日本映画の技術的向上を願うメッセージを日本の興行関係者に向けて送った。

 同年10月4日には、早くも監督ジェイ・マーチャント、現像技師アルフレッド・ゴズディン、撮影技師ハロルド・スミス、電気技師(照明技師)アル・ボックマンとともに、ベルハウエルの映画用カメラ6台、野外用ゼネ(発電機)2台、照明機材80台などが横浜港に到着した。

 またこの「連合映画」社の宣伝部長に、大阪時事新報社の記者でエスペランティストとしても知られる神崎泉(のちの女優桜緋紗子の父)が就任した。

 設立第1作『切支丹お蝶』は翌1927年(昭和2年)1月28日に、ユニヴァーサル社配給のフランス映画『大帝の密使』(ヴィクトル・トゥールジャンスキー監督)とともに公開された。

『切支丹お蝶』は、山上紀夫監督をはじめとして、東邦映画製作所の解散によって流れてきた撮影技師高城泰策らスタッフ、女優五月信子、男優高橋義信らキャストと、ハロルド・スミス、アル・ボックマンの指導による撮影が行われた。同作は、日本の映画批評界の注目の的となり、絶賛を受けた。

 しかし「阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画」社の最大の欠点は、阪妻プロ第4作の『尊王』以降の契約を根拠に、阪東出演作の配給権は松竹キネマが握っていたことである。

 したがって、阪東は小沢得二監督の『嵐に立つ女』に顔を出した程度で、「連合映画」にはまったく出演できなかった。

 スター不在の同社現代劇は興行力に欠け、またユニヴァーサル社の思惑からも外れ、同年5月末には契約解除となり、訴訟にまで発展した。

 立花と阪東の描いた世界への夢は、夢のまま終わった。「太秦撮影所現代劇部」は解散、『飛行夜叉』全3作は未完のまま、35本のサイレント映画を残した。

■『狂つた一頁』(くるったいっページ)は、1926年9月24日(大正15年)に公開された日本映画である。

 監督は衣笠貞之助、主演は井上正夫。衣笠が横光利一や川端康成などの新感覚派の作家と結成した新感覚派映画聯盟の第1回作品で、無字幕のサイレント映画として公開された。

 激しいフラッシュバックや多重露光、キアロスクーロ、素早いショット繋ぎ、オーバーラップなどの技法を駆使して斬新な映像表現を試みた、日本初のアヴァンギャルド映画である。

 物語は精神病院が舞台で、狂人たちの幻想と現実が交錯して描かれる。大正モダニズムの成果である本作は、ドイツ映画『カリガリ博士』(1920年)に触発されたものであるが、そこに日本人固有の家族観が入れられているところに独自の工夫がある。

●映画評論家の岩崎昶は本作を激賞し、「日本で生まれた最初の素晴らしい映画だ、と私は確信を持って断言する。そしてまた、日本で作られた、最初の世界的映画だ」と評した。

 同年度のキネマ旬報ベスト・テンでは4位にランクインされた。

 海外でも高評価を受けており、オブザーバー紙は『カリガリ博士』や『戦艦ポチョムキン』などと比べながらこの作品を紹介し、「衣笠貞之助はアベル・ガンス、セルゲイ・エイゼンシュテインと並んで映画的創造者のパンテオンに臨席することになるだろう」と評した。

 ニューヨーク・タイムズ紙は「現代の作品のような強烈さとスマートさをもった催眠術的ファンタジー」と評した。

 また『タイムアウト』は「今も見ることのできる最も過激で挑戦的な日本映画のひとつ」と評し、『スラントマガジン』が発表した「史上最高のホラー映画ベスト100」で50位にランクインした。

アバンギャルド、または、アヴァンギャルド(仏: avant-garde)
フランス語でもともと「前衛部隊」を指す語であり「最先端に立つ人」、芸術の文脈においては、《革新的な試み》や《実験的な試み》を指すようになった。

 美術・音楽・映画・演劇・舞踏・文学・書道・生け花など、各分野で「アバンギャルド」と呼ばれる表現が存在する。漢字で表現する場合は「前衛」とし「前衛芸術」「前衛美術」「前衛音楽」「前衛文学」等の用語・概念がある。

「アバンギャルド」がもともと軍事用語を引用したことからも「何かへの攻撃の先頭に立つ」というような、政治的ニュアンス、挑戦的な姿勢を示す言葉である(例えば、旧世代に属する芸術、保守的な権威、資本主義体制など、様々なものへの挑戦する姿勢、戦いを挑む気概などを含んでいるものを指す用語・概念である)。

キートン将軍(キートンの大列車追跡、キートンの大列車強盗) (The General, 共同監督, 1927)

 列車を使ったアクションとギャグが素晴らしい。

 バスター・キートンの最高傑作のひとつだが、公開当時の評論家受けは良くなかった。

■『忠次旅日記』(ちゅうじたびにっき)は、1927年(昭和2年)に日活大将軍撮影所で製作された日本のサイレント映画、剣戟映画である。

 第1部「甲州殺陣篇」、第2部「信州血笑篇」、第3部「御用篇」からなるシリーズ作である。監督は伊藤大輔、主演は大河内傳次郎。「忠次三部作」または「忠次三部曲」と総称される。

★「国定忠次は鬼より怖い。にっこり笑って人を斬る」と歌われた幕末の上州(現群馬県)の侠客国定忠次は、悪代官をこらしめ農民を救う英雄として講談、浪曲や大衆演劇で人気を集め、大正時代には澤田正二郎演じる新国劇の舞台や尾上松之助主演による映画化が行われていた。

 1926年(大正15年)に日活に入社した伊藤大輔は、同年の時代劇映画『長恨』でコンビを組んだ第二新国劇出身の若手俳優、大河内傳次郎を使って従来の颯爽とした英雄忠次像を廃し、子分に裏切られて破滅していく人間くさい忠次像を映画化しようとした。

 だが、経営陣は、松之助が演じた従来の忠次像にこだわり許可しなかったので、止む無く伊藤は第1部「甲州殺陣篇」でヒーローとしての忠次を描いた。

 幸い好評を得たので、その実績をもとに本来のテーマである第2部、第3部を製作した。伊藤本人の言を借りれば「無頼漢の忠次とは何事だと横槍が出て、仕方なしに『血笑篇』と『御用篇』のテーマは残して、最初に『甲州殺陣篇』と言う無意味な立ち回りを撮ったんです。

 その立ち回りが当たったんで、松之助さんも病没したことではあるし、まあ続けてあともやれということで……そんな時代の産物でしたよ、あの忠次は」というように、第1部は監督自身あまり愛着を持っておらず、本来のテーマを元にした第2部、第3部が重要なのであった。

 それでも三作とも、外国映画の影響を受けた斬新な演出、動きのあるカメラワーク、御用提灯の効果的な使用、大河内の迫真の演技、激しい立ち回り、瑞々しいリリシズム、字幕の巧妙な使用など、従来の時代劇と違う新しさが評価された。

 作品は大ヒットし、芸術的にも高く評価され、たちまちのうちに監督・伊藤大輔、主演・大河内伝次郎、撮影・唐沢弘光のゴールデントリオに人気が集まった。

 以降このトリオは最新の映像表現で、『新版大岡政談』『興亡新撰組』『御誂次郎吉格子』などサイレント時代劇の名作を世に送っていった。

 当時の評を見ると「鮮烈なタッチのカッテイングと悲壮感」(第1部)「胸を打つセンチメンタリズムのほとばしり」(第2部)「灰色のニヒリズムと悲愴美」(第3部)と書かれていて、後の日本映画を支える人材達はこの映画に少なからず影響を受けており、その後の日本映画の歴史を変えたエポックメーキングな「時代劇の古典」として重要な地位を占めている。

 その後、伊藤監督自身が総集篇を作るときに第1部を廃棄、残った第2部と第3部のフィルムと脚本も散逸し、第3部の1分間の断片シーンしか残されていない「幻の名作」とされていたが、1991年(平成3年)12月、広島県の民家の蔵から可燃性の35㎜フィルムが発見された。

 フィルムは広島市映像文化ライブラリーを経て、東京国立近代美術館フィルムセンターで復元作業が行われた。

 フィルムは第2部の一部と第3部の大部分、計89分であることが分かった。

 1992年(平成4年)10月10日、11日、同センターで復元版が公開された。

 2011年(平成23年)7月には同センターが着色及びデジタルリマスタリング化を行った106分のデジタル版が上映され、9月にはCSの衛星劇場で放送されて、茶の間にも名作が見られるようになった(フィルム修復の過程を描いた特別番組『「忠次旅日記」が辿った軌跡』も放送された)。

 その後、第1部の冒頭1分も発見されている。

 昭和2年度のキネマ旬報ベストテンに第2部が第1位、第3部が第4位にランクインされた。

■『サンライズ』(Sunrise: A Song of Two Humans, または Sunrise)は、1927年公開のアメリカ合衆国の映画である。監督はドイツ出身のF・W・ムルナウ。

 本作はサイレント映画だが、映画史上初のムービートーンFox Movietoneによるサウンドカメラで撮影され、音楽付きのサウンド版である。

 また、路面電車の走る都会の街並みや、葦に囲まれた湖など、全シーンがセットで撮影されており、字幕をなるべく排除して視覚的表現を重視した手法となっている。

 第1回アカデミー賞において、芸術作品賞と撮影賞、主演のジャネット・ゲイナーが『第七天国』の演技と共に主演女優賞を受賞した。

■『メトロポリス』(Metropolis)は、フリッツ・ラング監督によって1926年製作、1927年1月10日に公開されたモノクロサイレント映画で、ヴァイマル共和政時代に製作されたドイツ映画である。

 製作時から100年後のディストピア未来都市を描いたこの映画は、以降多数のSF作品に多大な影響を与え、世界初のSF映画とされる『月世界旅行』が示した「映画におけるサイエンス・フィクション」の可能性を飛躍的に向上させたSF映画黎明期の傑作とされている。

アンドロイド・マリアのレプリカ

 フォレスト・J・アッカーマンは本作をSF映画に必要な要素が全てちりばめられており「SF映画の原点にして頂点」と評価している。

 また、前年の1925年に製作された『戦艦ポチョムキン』と並んで、当時の資本主義と共産主義の対立を描いた作品でもある。

■1927年2月、ハリウッドの当時の大手映画会社5社(パラマウント、MGM、ユニバーサル、First National、セシル・B・デミルの Producers Distributing Corporation (PDC))がある合意に達した。

 この大手5スタジオは発声映画の互換性を保つために5社がひとつのプロバイダを選ぶことで合意したのである。

発声映画はあらゆる既知の有名人を利用して大々的に宣伝された。

 1927年5月20日、ニューヨークのロキシー劇場で同日早朝に大西洋横断飛行に旅立ったチャールズ・リンドバーグの離陸のニュース映画をフォックスのムービートーンで上映した。

 また6月にはリンドバーグが帰還し、ニューヨークやワシントンD.C.で歓迎される様子を同じくフォックスの発声ニュース映画で伝えた。

 これらは今日までに最も賞賛された発声映画とされている。

 フォックスは同年5月に台詞を同期させたハリウッド初の短編劇映画 They’re Coming to Get Me(主演はコメディアンの Chic Sale)を公開している。

長編映画としての世界初のトーキー

ジャズ・シンガー』(The Jazz Singer)は、1927年10月6日にアメリカ合衆国のワーナー・ブラザースが公開し、ヴァイタフォン方式による音声付きの映画。やや不正確な表現であるが、しばしば長編映画として「世界初」のトーキーとして言及されることがある。

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『ジャズ・シンガー』(The Jazz Singer)は、1927年10月6日にアメリカ合衆国のワーナー・ブラザースが公開し、ヴァイタフォン方式による音声付きの映画。

 やや不正確な表現であるが、しばしば長編映画として「世界初」のトーキーとして言及されることがある。

「Wait a minute, wait a minute. You ain’t heard nothin’ yet! (「待ってくれ、お楽しみはこれからだ!」 直訳では「―君はまだ何も聴いてないんだぜ」)」というセリフが有名である。

 2005年6月に発表された「アメリカ映画の名セリフベスト100」ではこのセリフが第71位にランクインしている。映画全編を通してのトーキーではなく、部分的なトーキー(パートトーキー)だったが、驚異的な興行収入を記録し、トーキーの時代の幕開きとなった。第1回アカデミー賞で脚色賞部門でノミネートされた。

トーキー (英: talkie) は、映像と音声が同期した映画のこと。この語は「talking picture(トーキング・ピクチャー)」から出たもので、「moving picture(ムービング・ピクチャー)」をmovie(ムービー)と呼んだのにならったものである。

 サイレント映画(無声映画)の対義語として「トーキー映画」と呼ばれることもあるが冗語である。

 無声映画の対義語としては「発声映画」と呼ばれる。

 音声が同期した映画が一般的な現在では、あえて「トーキー」と呼ぶことはない。

 発声映画が最初に上映されたのは1900年のパリでのことだったが、商業的に成り立つにはさらに10年以上を要した。

 当初は映画フィルムとは別にレコード盤に録音したものを使っていたため同期が難しく、しかも録音や再生の音質も不十分だった。サウンドカメラの発明によって同期が簡単になり、1923年4月にニューヨークで世界で初めてその技術を使った短編映画が一般上映された。

 発声映画の商業化への第1歩はアメリカ合衆国で1920年代後半に始まった。

 トーキーという名称はこのころに生まれた。

 当初は短編映画ばかりで、長編映画には音楽や効果音だけをつけていた。

 長編映画としての世界初のトーキーは、1927年10月公開のアメリカ映画『ジャズ・シンガー』(ワーナー・ブラザース製作・配給)であり、ヴァイタフォン方式だった。

 これは、前述のレコード盤に録音したものを使う方式で、その後はサウンド・オン・フィルム方式(サウンドトラック方式)がトーキーの主流となった。

 翌1928年に、サウンドトラック方式を採用したウォルト・ディズニー・プロダクション製作の『蒸気船ウィリー』が公開される。

 『蒸気船ウィリー』は短編ながら、初のクリックトラックを採用した映画である。

 しかし、世界初のトーキーアニメーション映画に関しては、1926年に、フライシャー・スタジオの『なつかしいケンタッキーの我が家(英語版)』がすでに公開されている。

■『ベン・ハー』(Ben-Hur: A Tale of the Christ, 「ベン・ハー – キリストのお話」の意)は、1927年10月8日公開、フレッド・ニブロ監督によるアメリカ合衆国の長篇劇映画である。サイレント映画。

 1924年(大正13年)に3社合併で設立されたばかりのメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)が、390万ドルの巨費(サイレント映画において最も高額な製作費)を投じ、フレッド・ニブロを監督に、ラモン・ノヴァロを主役に製作したスペクタクル超大作である。

 原作はルー・ウォーレスが1880年(明治13年)に発表した小説『ベン・ハー』で、1907年(明治40年)の15分の短篇版に次ぐ2度目の映画化である。

 当初、チャールズ・ブレビンが監督し、ジョージ・ウォルシュが主演をする予定であった。

 高名な戦車競争シーンは、リーヴス・イースンが演出している。

 同シーンの観衆エキストラとして、当時の俳優、スタッフらが大量に動員された。

 ウィリアム・ワイラーによる1959年の3度目のリメイクはこの2作目をほぼ完全に踏襲している。

 ワイラーは2作目の助監督でもあり、両作品に関わった数少ない人物である。

■1927年(昭和2年)「日活太秦撮影所」開所。[日活大将軍撮影所」の機能を引き継いだ。 1942年(昭和17年)、戦時統合により大映(現:角川映画)が設立され「大映京都撮影所」に改称。1986年(昭和61年)4月閉鎖。

■1928年(昭和3年)大沢商会がベル&ハウエルの輸入を開始。

■『サーカス』(原題:The Circus)は、1928年1月6日に公開されたアメリカ映画。チャールズ・チャップリンが監督・脚本・演出・音楽・主演を務めた。1929年のアカデミー賞名誉賞を受賞した。

★チャップリンがユナイテッド・アーティスツで製作した3作目の映画である (彼自身の出演作品としては『黄金狂時代』に次いで2作目)。

 公開当時はサイレント映画であったが、1970年に新規に録音したBGMを付けて再公開された。

 チャップリン演じる放浪者が綱渡りするシーンはスタントや特撮を一切用いておらず、すべて本人が実際に演じている。
 このシーンでは数匹の猿が寄ってきてチャップリンの邪魔をするが、チャップリンの鼻をかじる猿は、同年に公開された映画『キートンのカメラマン』でバスター・キートンと共演した猿と同じ猿である。

 性別はメスで名前はジョゼフィンといい、チャップリンが1949年に生まれた次女に同じ名を付けている。 


 再公開の際にチャップリン自身が映画の主題歌を歌った。(題名は「Swing High Little Girl(ブランコをこげ、少女よ)」)

■世界最初のシュルレアリスム映画

貝殻と僧侶 La Coquille et le clergyman』

アントナンアルトーのオリジナルのシナリオから、ジェルメーヌデュラックが監督した実験的なフランス映画。 1928年2月9日にパリで初演された。

■『紐育の灯』(Lights of New York)は、1928年7月18日公開のアメリカ映画で、長編映画として世界初のオール・トーキー映画でもある。

 1927年、ワーナー・ブラザースは世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』を公開した。

 しかしこれは台詞の一部や歌のシーンだけがトーキーの、いわゆるパート・トーキー映画であった。

 その翌年、全編を通して音声が収録されたオール・トーキー映画が公開された。それが本作品『紐育の灯』である。

■1928年9月には ポール・テリー が同期音声つきアニメ映画 Dinner Time を公開。

■『蒸気船ウィリー』(じょうきせんウィリー、原題:Steamboat Willie)は、1928年11月18日にアメリカ合衆国で公開されたディズニー制作の短編アニメーション作品である。

ミッキーマウスの短編映画シリーズとして最初に公開された作品である。

 世界初のトーキー・アニメーション、つまり音声つきのアニメーション作品であるという評価がなされることが多いが、正確にはこれは間違いである。

 この作品以前にマックス・フライシャーが経営していたインクウェル・スタジオの『ソング・カー・テューンズ(Song Car-Tunes、1924年 – 27年)(全36作品中19作品がトーキー)』ポール・テリーの『ディナー・タイム(Dinner Time、1928年)』などが既に音声つきアニメーションとして制作されている。

 『蒸気船ウィリー』の価値は、サウンドトラック方式を世界で初めて採用したところにある。

サウンドトラック(英: soundtrack)は、映画および映画音楽の用語で、映画のフィルム上における音声が収録されている部分を指す。

 映画用語から派生した言葉であり、映画、テレビドラマ、テレビゲーム、アニメ、コマーシャルソングなどの「劇伴音楽」や「付随音楽」を収録したアルバムを指す場合もある。

 略称はサントラとされることが多いが、OST(original soundtrackの略)とされることもある。

 サウンドトラックは、元来はトーキーが実用化された際、フィルムの長手方向に画像コマとは独立に設けた音声用トラックを指した技術用語である。

 台詞・効果音・BGMなどが含まれ、上映に際して再生される。この方式を使って公開された最初の映画は、1926年公開のフライシャー・スタジオ製作の映画『なつかしいケンタッキーの我が家』である。

■『アンダルシアの犬』(フランス語: Un Chien Andalou)は、ルイス・ブニュエルサルバドール・ダリによる1928年に製作され1929年に公開されたフランス映画。

 シュルレアリスムの傑作と評される、実験的ショート・フィルム。

 アナキズムに心酔していたブニュエルによる、「映画の機能を否定した映画」。

 大筋で男性と女性の情のもつれを描くものの明快なストーリーはなく、冒頭の女性が剃刀で眼球を真二つにされるシーンに始まり、切断され路上に転がった右腕を杖でつつく青年、手のひらに群がる蟻など、脈略のない、だが衝撃的な謎めいたイメージ映像が断片的に描かれる。

 それらはブニュエルとダリが互いに出し合ったイメージ群であり、観客はそれらのイメージから、何かしらを感じ取る事を要求される。

 初めて上映された時、ブニュエルは観客の抗議を予想してポケットに投石用の小石を詰め込んでいた。

 しかし、パブロ・ピカソ、アンドレ・ブルトン、ジャン・コクトー、マックス・エルンスト、ル・コルビュジエ、ルネ・マグリット、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、マン・レイ、トリスタン・ツァラらを含む観客は拍手喝采で映画を迎え、ブニュエルはシュルレアリスト・グループへの参加が許された。

 前述の女性が目を剃刀で切られるシーンでは、ブニュエルによれば死んだ子牛の目を用いたそうである。

 その事実が世間に広まるまでは、豚や馬の目、もしくは死体やスタッフの手作りによるものなど様々な憶測が飛び交っていた。

■『これがロシヤだ』(露: Человек с киноаппаратом、ラテン語表記:Chelovek s kino-apparatom)は、1929年1月8日に公開されたソビエト連邦のドキュメンタリー映画。

 サイレント。監督はジガ・ヴェルトフ。日本では1932年3月10日に公開された。

 多重露光低速度撮影スローモーションフリーズフレームマッチカットジャンプカット、分割スクリーン(Split Screen)、ダッチアングル超接写トラッキングショット、逆回転、ストップモーション・アニメーションおよびSelf-reflexive(映画の制作過程を題材とすること)など、当時では画期的な最先端の特殊撮影技法を用いている。

 現在日本では原題の直訳である『カメラを持った男』というタイトルで公開/DVDが発売されている。

マイケル・ナイマン カメラを持った男 [DVD]

ダッチアングル(Dutch angle)とはカメラの撮影技法。カメラを傾けて、あえて水平にせず撮影する方法である。恐怖や不安を表現する際に用いられることが多い。

低速度撮影(ていそくどさつえい)とは高速度撮影とは逆にカメラの回転速度を低くして、撮影するコマ数を24枚/秒(ビデオの場合には30枚/秒)より少なくして撮影する技法。

 一般的にはコマ落としなどと言われている。

 スピード感ある効果が出るため、決闘や戦闘のシーン、追跡のシーンなどで用いられることがある。

 マキノ雅弘は戦前の作品においてこの効果を出すためにコマ落としを好んで使った。

 シャッタースピードの調整が不十分な低速度撮影の場合、ちょこまかと動く不自然な動きになってしまうが、シャッタースピードを通常の撮影よりも遅く調節すればほぼ通常撮影のときと同等の自然感が出せる。

 監視カメラの記憶容量(メモリやテープの長さ)を節約するために使われる場合も有る。

トラッキングショット (Tracking shot, Trucking Shot) とは、移動しながら被写体を撮影すること。

 ドリーにカメラを取り付け、レールの上を走らせて撮る方法が一般的だが、手持ちのステディカムやジンバルを使用することもある。

 フォローショット (following shot) 、ドリーショット(Dolly Shot)とも呼ばれる。さらに、平行移動の場合のみ、カニの横歩きに例えて「Crabbing Shot」と呼ぶこともある。

 俳優や乗り物などの被写体が移動してフレームの外に消えた時、それを「追跡する(track)」ために使われることが多い。

 被写体と並行して移動することが多いが、被写体を軸に半円を描いたり、回転したりすることもある。

マッチカット(Match cut)とは、本来は時間も場所も異なる連続していない2つの場面を、共通の動作や被写体の類似性で繋ぐ編集技法である。

 具体的な例を挙げると、

 アルフレッド・ヒッチコック監督の『北北西に進路を取れ』:ラシュモア山で崖から落ちそうなったエヴァ・マリー・セイントをケーリー・グラントが引き上げるが、引き上げられた次の場面は場所が列車の中に変わっている。

 引き上げるという同じ動きによるマッチカット。


 スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』:猿人が道具に使えると知った骨を得意げに空に投げると、次のシーンで骨は宇宙空間で浮遊する人工衛星に変わっている。

 類似した2つの被写体の形状(とスピンする動き)によるマッチカット。

 また、このシークエンスは骨から人工衛星への科学技術の進歩をも意味している。

 マッチカットは「Continuity Editing(コンティニュイティ編集、継続的編集)」の原理に基づいている。

 たとえば、「引き上げる」という動作は時間や場所を問わず偏在するので、本来不連続的な異なる2つの時空間も、「引き上げる」という動作の連続性を根拠に、クロスカッティング技術で繋ぐことができるわけである。 

 連続性のないジャンプカットとは対照的である。

ジャンプカット(英語:jump cut)とは、映像編集手法の一種である。

 同様のショットを、時間の経過を飛ばして繋ぎ合わせること。


 ショットの途中を飛ばして、あるいは同じ被写体や光景を同様の構図で捉えたショット同士を、直接繋ぎ合わせるカット手法。

 鑑賞者には時間が突然跳躍(ジャンプ)したように感じられる。音に例えるとレコードの針飛びである。

 映像が編集されている、つまり作り物であることが意識されやすく、違和感やときに不快感を伴うため基本的には避けられる。

 一方、自覚的に用いて演出効果を上げている例も多々あり、本質的に不適切な手法とまではいえない。

 ショットの途中を飛ばして、あるいは同じ被写体や光景を同様の構図で捉えたショット同士を、直接繋ぎ合わせるカット手法。

 鑑賞者には時間が突然跳躍(ジャンプ)したように感じられる。音に例えるとレコードの針飛びである。

 映像が編集されている、つまり作り物であることが意識されやすく、違和感やときに不快感を伴うため基本的には避けられる。

 一方、自覚的に用いて演出効果を上げている例も多々あり、本質的に不適切な手法とまではいえない。


 ニュース番組などの報道映像、とりわけ通行人などへのインタビューにはジャンプカットがしばしば生じる。

 報道の性質上、撮影機材や編集時間が限られることに加え、発言を要約する編集がなされるためである。 

 近年では、YouTubeなどの動画投稿サイトにおける顔出し企画(いわゆるYouTuberもの)によく見られる。

 動画投稿サイトでは3分以上の動画は好まれないことから会話の「間」を削除してできるだけ時間を縮めようとすることに加え、固定された一台のカメラで撮影する簡易な制作の結果としてジャンプカットが生じるのである。


カット割りによる時間経過


 繋がっているのが同様の画でないにもかかわらず、単にカットの間に時間が跳躍することのみを指してジャンプカットと呼ぶのは誤り。

 一般に映像の尺は描く内容・物語の時間よりも圧倒的に短く、時間を飛ばして余計な経過を省くのはごく当然であり、手法として云うに及ばない。

■『月世界の女』(独: Frau im Mond)は、ドイツのサイレント映画である。

 初公開は1929年10月15日、ベルリンのウーファ・パラスト・アム・ツォー、観客は2000人だった。

 監督はフリッツ・ラングで、当時彼の妻だったテア・フォン・ハルボウが前年に出版した小説『Die Frau im Mond』を原作としている。

 1928年10月から1929年6月にかけて、ベルリン近郊のノイバベルスベルクにあるUFAスタジオで撮影された。

 ロケットの発射シーンでは多段式ロケットを採用するなど当時としては画期的で、本格的SF映画の古典の一つとみなされている。

★この映画のロケット打ち上げシーンは、その後のSF映画・小説だけではなく、実際の宇宙開発にも大きな影響を与えた。とくにアメリカの宇宙開発競争への影響が指摘されている。

 ロケットは高い建物の中で建造され、発射台に移動される。


 ロケット発射にあたってカウントダウンが用いられる。カウントダウンはこの映画で最初に用いられ、以後、実際のロケット発射に使われるようになった。


 ロケットは水を張ったプールから打ち上げられる。現在でも水は発射時の高熱の吸収・放散および排気音を抑えるために用いられている。


 宇宙空間でロケットは切り離される。現代の多段式ロケットの原理である。

 
 乗組員は打ち上げ時と軌道に乗る前の加速時の耐Gのため水平ベッドに横たわる。


 無重力時に床に足を固定させる。(現在は面ファスナーを使用)。


 この映画の科学考証にあたったのはドイツのロケット工学者のヘルマン・オーベルトである。

 オーベルトはこの映画のためにロケットを建造するつもりだったが、期間と技術的問題でできなかった。

 この映画は宇宙旅行協会のヴェルナー・フォン・ブラウンたちの間でも人気となり、ペーネミュンデ陸軍兵器実験場で最初の打ち上げに成功したV2ロケットの基部には「Frau im Mond」のロゴが描かれてた。

 オーベルト以外にも、後にアメリカに渡り科学ライターとなるウィリー・レイが監修として参加している。

 こうした点はナチスが極秘裏に勧めていたV2ロケット計画と酷似していたため、1933年から1945年にかけて、この映画は上映禁止になっている。 

 ロケットが登場するトマス・ピンチョン『重力の虹』にこの映画のことが言及されている。

徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 – 1971年8月1日)は、日本の弁士、漫談家、作家、俳優。ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。

 本名は福原駿雄(ふくはら としお)。「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。日本放送芸能家協会(現・日本俳優連合)初代理事長。

 1915年(大正4年)9月に、赤坂葵館に主任弁士として迎えられる。

 この時、支配人が勝手に、「葵」から「徳川」という芸名をつけたため、後でそれを知った当人はその大げさな名前に驚いたという。

 1916年(大正5年)ごろ、弁士をしながら明治大学の聴講生になり1年ほど籍をおいた。

 1921年(大正10年)5月14日、日本で初公開のドイツ表現派の映画『カリガリ博士』の弁士を務めたという記録もあり、活動写真が好きでなかった竹久夢二なども観覧し、その印象を雑誌「新小説」に挿絵とともに寄稿している。

 1925年(大正14年)、新宿武蔵野館に入る。東京を代表する弁士として、人気を博す。

 昭和の時代になって、音声の出るトーキーが登場すると弁士の必要はなくなり、漫談や演劇に転じる。

 まだ弁士時代の1926年(大正15年)から、特別イベントとして古川ロッパらと弁士らの珍芸劇団「ナヤマシ会」を数年、開催。

 弁士を廃業した1933年(昭和8年)、やはりロッパらと劇団「笑の王国」を結成するも意見の相違ですぐに脱退。

1930年代

 1937年(昭和12年)、岸田国士、杉村春子らの文学座に参加。

 ただし、新劇俳優としての夢声については悪評の嵐であり、文学座を退団。他に、映画にも俳優として出演する。

 1942年には、薄田研二、丸山定夫、藤原釜足らと劇団「苦楽座」を結成。

 また、漫談の研究団体「談譚集団」を結成。

 メンバーは、大辻司郎、山野一郎、松井翠声、泉虎夫、奈美野一郎、木下華声、5代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)、正岡容ら。

 また、夢声の弟子の丸山章治、福地悟郎、吉井俊郎、木戸竝であり、月に1回、新作漫談の発表会をやっていた。

 なお、夢声は早くから老人めいた雰囲気があり、40代から「夢声老」と、50代では「夢声翁」とよばれていた。

 また、ラジオでも活躍。1939年から(レギュラー放送は1943年から)、NHKラジオで吉川英治の『宮本武蔵』の朗読を始め、人気を博す。

 独特の「間」は夢声独自のものであった。

1955年

 1971年(昭和46年)8月1日12時20分、脳軟化症に肺炎を併発して死去した。77歳没。

 最期の言葉は「おい、いい夫婦だったなあ」であった。

 

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